2019.12.12

“しまっていこうぜ”
吉森みき男先生
レジェンドインタビュー

下手っぴでもいいじゃないか!野球の楽しさが詰まった『しまっていこうぜ!』は
吉森みき男先生の経験によって生まれたものだった!

少女マンガ家としての挫折
『冒険王』でカット描きも

50周年記念号のコメントで、『週チャン』との出会いはカット描きからだったと書かれていましたが?
「正確には『冒険王』ですね。のちに『週刊チャンピオン』の編集長になられる成田さんが担当で、読者ページ用のイラストを描いていました。」

その頃、先生はすでに少女マンガ家としてデビューされていたとか?
「そうですね、僕は少女マンガ家として1965年、23歳のときにデビューしていますから。実は5年くらいやったときに描けなくなってしまったんです。出版社に新しいアイデアを持っていっても全部ボツになってしまって……。」

スランプですか?
「当時の担当から言われたのは「吉森さんが描く女の子は、男から見た可愛い子だ」って指摘されてね、その言葉を聞いて悩みました。マンガ家を辞めようとまで思ったくらいです。」

なぜ少年漫画ではなくて、少女マンガだったのですか?
「そもそも僕は、高校1年生からマンガ家の内野純緒さんのお手伝いをしていて、師匠が少女マンガを中心に活躍されていたので、弟子である僕もその流れで少女マンガ家になったんです。」

順風満帆だったマンガ家人生が壁にぶち当たってしまったわけですね。
「当時は高度経済成長時代だから働く先はいっぱいあったけど、僕はマンガの世界しか知らないから、なんにもできないわけ。だから、「2年間だけ暇をくれ」ってカミさんに言って、持ち込みをするための読み切りを描いたんです。」

持ち込みから⁉
「でも、通常の読み切り作品って20ページくらいでしょ? 僕は60ページも描いちゃった。だけど、それを『週刊少年ジャンプ』が載せてくれたんです。あれはデビューしたときよりも嬉しかったですね。一回は諦めたマンガ家にもう一回、なれるんだ! と思ってね。」

ちばあきお先生との友情
『しまっていこうぜ!』誕生秘話

その経緯があって、秋田書店でもカットのお仕事をされたんですね。
「カットを描いているうちに今度は『週刊チャンピオン』から、24ページの読み切りを描かないか? というお話をいただいたんです。」

1973年に『イレギュラーバウンド』と『大本勇の8月15日』という読み切りを発表されています。
「『大本勇の8月15日』は反戦マンガで、一生懸命描いてね、それが実質上の『チャンピオン』との結びつきかな。」

『しまっていこうぜ!』はどういうきっかけで?
「あの頃はプロ野球がとても人気で野球マンガも多かったんです。マンガ家もみんな野球をやっていて、14~15くらいチームがあったんですよ。ちばてつや先生率いる「ホワイターズ」や水島新司先生の「ボッツ」、ほかにも本宮ひろ志先生のチームとか。僕は「ライナーズ」って荘司としお先生と一緒のチーム。でも、いつもビリか、ビリから2番目で弱かった。いつもお昼ごはんを食べるのが一番早かった(笑)。」

草野球を楽しんでたわけですね。
「当時の僕はちばあきおさん(※)としょちゅう飲んでててね(笑)。あきおちゃんも野球が大好きだったんだけど、野球マンガって魔球が出てくるものや根性ものばっかりだけど、僕らが遊んでいるような下手っぴ野球ってマンガにならないかな? って話をしてたの。下手くそでも野球が好きな少年たちの物語を描けたらいいなと思って『しまっていこうぜ!』を描き始めたんです。」

ご自身の経験談が土台になって、『しまっていこうぜ!』があったんですね。しかも、その裏にちばあきお先生との友情があったのは驚きです。
「あきおちゃんは僕よりひとつ年下で、歳が近いということもあってよく一緒に飲んでたんだよね。あきおちゃんが『デラックスサンデー』で描いた読み切りの『いってきま~す』なんて名作でさ、僕はそのときに完璧な夜型だったんだけど、朝7時くらいにそれを読んで、その素晴らしさに感動してすぐ電話しちゃったくらい。そうしたら「ばかやろ~、今、何時だと思ってんだよ」って(笑)。でもね、それくらい感動してすぐ伝えたくなったんですよ。」

それは『キャプテン』や『プレーボール』の前に描かれていた作品ですか?
「そう。あきおちゃんのマンガって、どこにでもありそうな物語なんだけど、一歩踏み出すんじゃなくて、半歩踏み出すところが良かった。」

子供たちにとっては一歩は大きすぎるけど、半歩だと自分でもやれそうだと思えるのかもしれません。
「そういうマンガがあるんだって土台を彼が作ってくれたので、『しまっていこうぜ!』を描き出したとき、僕もやりやすかったですね。」

吉森みき男●よしもり みきお

『別冊マーガレット』の『5つめの宝石』で少女マンガ家としてデビュー。1973年に『週チャン』で発表した野球マンガ『しまっていいこうぜ!』がヒット。他に『いけ悪太郎』、『つっぱしり元太郎』、『ライパチくん』など。

主人公が中学生なのは自由に描ける年代だから

『しまっていこうぜ!』連載中のエピソードで印象的なことはありますか?
「当時のデスクだった熊さんがタイトルを決める前に、『マウンドで泣け!』にしようって言ったことは忘れられません。もうちょっと柔らかいタイトルにしてくださいって、あのときばかりは必至に食らいつきましたよ(笑)。」

多くの野球マンガは高校生を主人公にして、甲子園を目指すのが定番ですが、『しまっていこうぜ!』は中学生が主人公でした。何か理由が?
「中学生くらいが一番やりやすかったんですよね。高校に行くとどうしても甲子園って目標ができちゃってあんまり自由がきかなくなる気がしたので。」

あえて甲子園を目指すマンガにしなかったんですね。
「連載がはじまって何年か経ったときに主人公が中学校を卒業する時期になっちゃったんです。いい区切りだなと思っていたら、編集長の壁さん(壁村耐三氏)が、「ダメだ!」と。」

ダメって言われても(笑)。
「まあ、それで高校生に進級したんですけど、面白くないですね……。」

え?
「主人公・大介の相棒で出したチビって重要なキャラクターがいるんですけど、一級下にしちゃったんで、高校に入ったらチビがいないんです。それは失敗だったなあと思います(笑)。」

チビがきっかけで大介は野球をはじめるようなものですからね。
「困りました。それに高校になって甲子園を目指すようになると、どうしても勝ち負けが重要になってくるので、結果に縛られたりもしますからね。」

どちらが勝つかわからないのも『しまっていこうぜ!』の魅力でした。
「僕は勝ち負けよりも友情とか仲間意識を描いていましたからね。」

伝説の200万部パーティー 
編集者が礼服でお出迎え

『しまっていこうぜ!』が連載していた時期は、ちょうど『週刊チャンピオン』が週刊少年誌で一番売れていた時期と重なります。当時の思い出で印象的なことはありますか?
「200万部を突破したときに帝国ホテルの孔雀の間でパーティーをやったことかな。」

おおっ! やっぱり実際にパーティーをやってたんですね。噂では聞いていたのですが、参加した人がいなかったので幻のパーティーかと思っていました。
「ありましたよ(笑)。連載していた作家さんはほとんどの方がいらしたんじゃないかな。司会が久米宏さんと松島トモ子さんで、ゲストが尾崎紀世彦さんと首里エイコさんで、大きなパーティーでしたよ。」

豪華ですね。
「そのパーティーでいちばん印象的だったのは、編集っていつもは汚い格好をしているんだけど、みんな似合わない礼服でピシッとしててね、大笑いしたな~。「なんでそんな格好してるんだ?」ってからかったものです。」

帝国ホテルでのパーティーともなるとさすがに(笑)。
「しまっていこうぜ!』の単行本が100万部を超えたときにもパーティーを開いて貰いましたね。そのときは友達や師匠の内野先生も来てくれて嬉しかったです。」

連載中はやはり大変でしたか?
「楽しかったですよ。作品に自分自身がノレたんですね。今、読み返しても、よくこんなことを考えたなってアイデアが詰まっていますし。今度はこうしてやろう、ああしてやろうってアイデアのなかで描けたのは喜びです。」

普遍的な友情物語として、今の子供たちにも手に取って貰いたいです。
「ちょっと話が逸れるけど、読売新聞で連載した『ライパチくん』は、新聞社の偉い方の息子さんが『しまっていこうぜ!』を読んでくれていて、それで僕に依頼が来たんです。なので、『しまっていこうぜ!』の存在は大きいです。」

『ライパチくん』も面白かったです。長きに渡ってマンガ家を続けられている先生が大事にしていることは?
「昔、兄貴から苦労なんてしなくてもいいけど、苦労と努力は違うんだぞって言われたことがありました。その言葉が頭に残っていたときに、持ち込み先の担当から「お前、このマンガを描くための原価はいくらだ?」と聞かれたんです。「紙やペンを合わせて10円くらいです」と答えたら、「10円のものを何百円かで売るんだから、それなりの努力はしてこいよ」って言われたんです。それが兄貴の言葉と重なってね、値段分の努力はしようってことは今も頭にあります。」

『週チャン』は50周年を迎えました。改めてメッセージをお願いします。
「僕の場合は楽しい思い出をありがとう、だよ。うん、それに尽きます。」