2019.10.24

“サナギさん” ほか 施川ユウキ先生
レジェンドインタビュー

頬が緩んで、心が和む!ハートフルな日常と奇抜なギャグが織りなす毒舌系ほのぼの4コマギャグ漫画「サナギさん」を始めとし、
数々の傑作を打ち出してきた施川ユウキ先生、デビュー時の心境や創作に関わる苦悩とこだわりを熱く語る!!

絵が下手だろうが、大丈夫だという自信があった。

のちにマンガ家・施川ユウキになる青年は、深夜のコンビニで働きながら、進路について思い悩んでいた。時代は1997年、青年は二十歳になろうとしていた。
「専門学校に通うために大阪ドームの近くでひとり暮らししてて、でも、あんまり学校には行ってなくて、コンビニでバイトしながら、どっちかっていうとフリーターっぽくなっていたときに考えたんですね。このまま専門学校に戻ってまともに就職することを考えるか、それともマンガ家になるか、それとも小説家になるか。
自分は、もともとマンガ家か小説家になりたかったんです。マンガも小説も書いたことなかったんですけど。
現実的に考えていちばん無難だったのが、学校に戻って就職することですよね。小説は……根拠もなく、なんか書けそうだと思ってました。若いので。そのころ日記書いてたし。でもさすがにプロになるのは簡単じゃないとわかってました。マンガ家はいちばん可能性低かったんです。絵が下手なのは自覚してたし。でも、いちばんなりたかったのがマンガ家だったんですよ。そんな怠惰な自分でも描けそうなマンガはなんだろう。とりあえず四コマなら描けるかな、ということで四コママンガを描き始めました。ぼくがいちばん影響を受けていたマンガが『伝染るんです。』(吉田戦車/小学館)だったので、ああいう感じの不条理四コマみたいなやつです。
あの頃って、不条理四コマがブームで、どの雑誌にも必ず2本くらい載ってました」

描き上げた作品は、かたっぱしから投稿していった。
「若いし、とんがってました。ネタがおもしろかったら、別に絵が下手だろうがなんだろうが大丈夫っしょ、みたいなところがあって。まあ、いけるんじゃないかと、謎の自信がありました。勘違いできる環境って大事ですね。いま同じ年齢だったら、まずネットに上げてソッコーで実力のなさを思い知って折れてたと思います。
当時はいろんな雑誌のショートギャグを読んで、『こいつには勝ってる!』とか『負けてる……』とか勝手なジャッジをやってました。勝っても負けてもいないのに。とくに自分と同年代の作家は意識してました。
それが、つまらない作品なら心が安定するので、つまらない漫画ほど毎週楽しみに読んでました。
ちゃんと人気もなくて、終わっちゃうんですけど」

幾多の落選にもめげずに投稿を続けた施川先生は、ついに週刊少年チャンピオンの第202回月例フレッシュまんが賞(1998年)で入賞を獲得する。
「編集の方から電話がかかってきて、『おもしろい』って言ってもらえて、『ですよねー!』って思いました。そこから担当がついて、『どんどん描いて、どんどん送ってくれ』と言われたので描いては送りを繰り返して、その半年後くらいに新人まんが賞の佳作を取ったんです」

そして翌1999年1月、『がんばれ酢めし疑獄!!』で念願のマンガ家デビューを果たした施川先生だったが、生活に大きな変化はなく、気持ち的にも舞い上がるようなことはなかったという。
「別にデビューしたからって、それで食えるわけじゃないから。連載が始まってからも、コンビニのバイトはしばらく続けてました。結局、『がんばれ酢めし疑獄!!』の1巻が出て、その印税で東京に出てきました」

真の締め切りっていつかわからないんですよ

その『がんばれ酢めし疑獄!!』が足かけ6年にわたる連載を終え2004年に完結すると、休むまもなくその4か月後には『サナギさん』を連載開始。
「不条理四コマブームが終わりかけていて、ぼく自身も古さを感じていたので、次はキャラクター性のあるものを……って考えて始めたのが『サナギさん』でした。毎回テーマというか“お題”があって、いいお題を思いつくと、ネタもいい感じのができてたと思います。言葉遊び的なものが得意なので、川柳をやった回とかやりやすかったですね。打ち合わせは基本的に世間話しかしてませんでした。毎週完成原稿を渡すついでに次回の話をするんですけど、いつもギリギリで上げて疲れてるから、いまちょっと仕事の話したくないんでって状態でした。っていうか、よくよく考えると、昔もいまも、常に仕事の話なんかしたくないのかもしれない。『締め切りにはなんとかギリギリ間に合わせるので、いまは仕事の話はちょっと……』っていつも思ってる気がします。まあ、ギリギリ間に合わないんですけど。真の締め切りっていつかわからないんですよ。というか知りたくない。真の締め切りがここなら、まだまだ引っ張れるなって思っちゃうから。編集の方には、なるべく巧妙にだまし続けてほしいです」

施川 ユウキ ● しかわ ゆうき

静岡県浜松市出身。週刊少年チャンピオンの漫画賞で佳作を受賞し、1999年に「がんばれ酢めし疑獄!!」でマンガ家としてのデビューを飾る。その後、「サナギさん」やヤングチャンピオン烈「鬱ごはん」、ヤングチャンピオン「オンノジ」など数々のヒット作を生み出した。

今度、チャンピオンで新作を依頼されたらどういうものを描きたいですか?という質問に対しては、意外な答えが返ってきた。
「四コマは……うーん。ショートはやるかもしれないけど、四コママンガにはあんまりこだわらないんじゃないですかね。ここ数年、自分の中で“脱四コマ”みたいなところがあるんですよ。ヤングチャンピオンで連載していた『オンノジ』(2011~2013)辺りの頃から、四コマで落とさないことについて考えるようになってきてるんです。四コマって、優先順位としては“とにかく四コマで成立させる”というのがいちばん上にあるじゃないですか。でも、より優先すべきはやっぱりキャラなんじゃないかなって改めて思いまして。『サナギさん』は四コマで落としてますが、ネタとキャラを同時に成立するように意識してました。ただ、常にネタを成立させていると、結局キャラが作り手の都合で動かされているようにしか見えなくなってしまうと感じたんです。ボケとツッコミだけを延々やらされてるみたいな。それはキャラクター性ではなく、ただの役割です。ネタを成立させずにキャラだけを成立させて、キャラを自由にした上で、キャラクター性に合ったネタをどこにどう入れるのかみたいなことを、ここ数年は漠然と考えてます。この機会に『がんばれ酢めし疑獄!!』と『サナギさん』読み返したんですが、ネタを大量に読み続けるのって、かなりしんどいんですよね……。ぼくは自虐的に“筋トレ見学”って呼んでまして、筋トレしているのを横でずっと見学してるような疲労感のある読み心地って意味です。大変そうなのは伝わるし、ストイックにやってるつもりかもしれないけど、これは果たしてエンタメなのだろうか、読み手側にもストイックさが求められるぞっていう。今でもネームを切っていて不安になると、余計なネタを足したりひねったネタを連続させたりしてしまいがちなんです。それで後からまとめて読み返した時に『やばい、これ筋トレ見学になってる……』とか気づいて単行本の時に直したりしてます。ぼく自身、怠惰な読者なんだから、なるべく怠惰な読み方でも伝わるようにと心がけています。あくまで昔と比べて、ですが」

あっという間の画業20周年。
次の10年も、もっと早く感じるんじゃないかな。

1999年にデビューして、今年マンガ家生活20周年を迎えられた施川先生に、最後は週刊少年チャンピオン50周年の記念メッセージと、自身のマンガ家生活20周年の感想をうかがった。
「チャンピオン、50周年ですか。本当にすごいことですよね。おめでとうございます。つぎは100周年をめざして……っていうのは、みなさんから言われていると思いますが、他にどういうコメントのパターンありました? このコメントで作家性とか独自性とか出すの難しいですよね。とにかく、長い歴史の一端に関われたことは、純粋に誇らしいです。自分のマンガ家生活20周年については……自分のまわりにいるのは、ぼくなんかよりもすごい人たちばかりじゃないですか。だから単に生き残っているだけだと、そこまでの感慨はないですね。さっきのデビューのときに特に舞い上がらなかったって話と同じです。それと、ついこの前、画業10周年をやったばっかのような気がするんですよ。『え!?絵が下手なのに漫画家に?』ってエッセイマンガの帯に『画業10周年』ってギャグっぽく書いてありました。あれから更に10年たってるってちょっと信じられないですね。だから、30周年もすぐ来そうですよ。何の感慨もなしに。よく年齢を重ねると週刊連載はきつくなると言われてますが、体力的な問題よりも時間感覚の問題だと思います。いま普通に生活していても、一週間たつのが本当に早い。テレビをつけると、いつも『王様のブランチ』やってるんですよ。実は毎日やってんじゃないかって。今日もやってましたよね? 今日平日ですか。この感覚で週刊の連載なんてしたら、実質日刊連載ですよ……」

そんなわけないですよ先生。だから新連載、期待してます!