2019.10.17

“壁村耐三がいた時代”
壁村門下生特別座談会!!
週刊少年チャンピオンを創った男たち

週チャン50年の歴史を語る上で避けては通れない男・壁村耐三。残念ながら鬼籍に入っている壁村氏。
数多の功績と稀有な人となりを語ってもらうべく、かつて壁村氏のもとで汗を流していた5人の壁村門下生に集ってもらった!!
楽しかったことも辛かったことも、5時間以上に及んだ壁村氏との想い出座談会!! 現代にも脈々と受け継がれる“壁村イズム”とは何なのか!? その真髄に迫る!!

壁村編集長時代  第1期:1972年26号〜1981年46号  
第2期:1985年17号〜1989年31号
座談会参加者 大西修一 (1972年入社 主な担当作『恐怖新聞』) 青木和夫 (1975年入社 主な担当作『ブラック・ジャック』) 山田光男 (1976年入社 主な担当作『がきデカ』) 植木康敬 (1979年入社 主な担当作『本気!』) 今井郷二 (1979年入社 主な担当作『すくらっぷ・ブック』)

光と影の伝説!カリスマ編集長の豪腕ぶり

壁村編集長にゆかりのある5人の編集者の方々に集まっていただきました。壁村さんは編集長を2期通算14年に渡って務められるなど、『週チャン』の50年を語るには避けて通れない方です。エピソードも多く、手塚治虫先生を恫喝したとか、会社でずっとお酒を飲んでいたとか、都市伝説のような話もあるので、そのあたりの真相も含めていろいろ聞かせてください。 植木 あー、常に酔っ払っていたっていうのは事実だな。ガハハハ。壁さんは光の部分も多いけど、闇も深いからね、覚悟しろよ?

楽しみです! みなさんのなかで壁村さんといちばんお付き合いが古いのは大西さんですか? 大西 私は1972年の4月に入社してすぐに『週チャン』の配属になりました。1か月くらいたったときに編集長が壁村さんになったんだけど、ガラリと部内の空気が変わりましたね。

1972年の6月19日号から壁村さんが2代目編集長になられます。当時の連載作は、永井豪先生の『あばしり一家』、水島新司先生の『ドカベン』、つのだじろう先生の『泣くな!十円』、横山光輝先生の『バビル2世』などが人気でした。どの部分がいちばん大きく変わったのですか? 大西 具体的には『ドカベン』以外の作品を全部、読み切りにしたこと。それまで16ページで連載していた作品を18~20ページにして、一話完結に。マンガ家さんは大変だったと思うよ。

青木 吉森みき男先生の『しまっていこうぜ!』は野球マンガなんだけど、無理やり一話完結にしていたでしょ?

山田 『ドカベン』を柔道から野球に変えたのも壁村さん?

大西 壁村さんだね。そして『ドカベン』を売ると決めたらとことん推した。徹底してたよ、そこは。壁村さんは水島先生のことを大切にしてたからね。

『ドカベン』は野球マンガになってから人気が出たものと思っていたのですが、前身の柔道編も『あばしり一家』とトップを争う人気だったとか。結果的に『ドカベン』は野球マンガとして国民的人気を得るのが凄いです。先見の明があったんですね。

『ドカベン』『がきデカ』『ブラック・ジャック』
大ヒット連発!

1975年に青木さん、1976年に山田さんが入社されますが、当時の『週チャン』は壁村体制が確立されたころで、部数も100万部を突破し、上り調子になっていきます。ちなみに1976年の新年1号は、『ドカベン』を筆頭に、山上たつひこ先生の『がきデカ』、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』、石井いさみ先生の『750ライダー』、古賀新一先生の『エコエコアザラク』はじめ、豪華な連載陣です。 青木 1975年の2月くらいからアルバイトで会社に来るようになって、3月には手塚先生のところへ行って『ブラック・ジャック』の原稿を受け取って来いと言われました。

山田 青木さんってそんなに前から手塚先生のところへ行ってたの?

青木 バイトだから泊まり込みはしなかったけど行ってたよ。若かったし、それまで熱心にマンガを読んでいたわけじゃなかったから、(手塚先生のことを)そんなに凄い先生だとは思わなかった。これが普通なんだと思ってずっと原稿を待っていた。当時は、いろんな事情があって他に社員がいなかったしね(笑)。

山田 青木さんホント、すごいね。手塚先生といえば青木さんだったからな~。オレは1976年入社だけど、中途採用なんですよ。地元の広島で広告代理店で働いていたんだけど、友人が秋田書店にいたのでそのツテで入れてもらったんです。でも、入社したときは壁村さんに冷たくされて寂しかったな~。編集部御用達のスナック“紅”にもなかなか連れて行ってもらえなかったし……お茶くみとかハガキの仕分けとかばっかりでさ。

青木 予告ページとかやってたよね? その頃、表紙や予告ページはデザイナーじゃなくて、編集者が持ち回りで担当してたんだけど、山ちゃんが入ったときにデザインの技術が凄いと思ったもん。さすが広告代理店出身だなって。

山田 一応、デザインはちょっとかじってましたからね。でも、マンガの担当はなかなかさせてもらえなかったんですよ。

青木 最初は山上たつひこ先生だっけ?

山田 いちばん最初は『ウル』の石川球太先生です。壁村さんに「何かマンガをやらせてくれませんか?」って直訴したら、「考えている」って言われて石川球太先生の担当をやらせていただけることになったんです。そのあとに『がきデカ』の山上たつひこ先生の担当に。そのときも壁村さんがいきなり「お前、今日から山上先生の担当だから」って言われて。あの『がきデカ』だからね。もっと早く言ってよ~と思いつつ、『がきデカ』は連載の最後まで担当させていただきましたね。

植木さんと今井さんは同期で、1979年入社です。1979年は『週チャン』史上最高の250万部を達成した年で、もっとも売れていた頃です。 植木 ちょうどオレたちが入る頃に夕刊フジに“社員一人当たりでいちばん稼いでいる会社ランキング”みたいな記事が載って、1位がなんと秋田書店だったんだよ。外から見たらそれくらい勢いはあったよ。電車の網棚にも『週チャン』が何冊も捨てられててさ。みんなが読んでた。最初は夢のような会社に入れたと思ったんだけどな。

入社したあとは違ったんですか? 植木 違う違う! それこそ打ち合わせのお茶代すらなかなか経費が切れなくてさ。壁さんの許可をようやくもらって経理に持っていったら「植木、お前もお茶を飲んだのか?」って(笑)。喫茶店で打ち合わせしてるのに、相手だけ飲んでるって変だろ~。そりゃあ飲むよ。これはヤバい会社に入ったと思ったね(笑)。

大西 ベテランの作家さんは、それがわかってるから「大西さん、オレが出すから」って気を遣ってくれてたね。

今井 仕事も先輩たちが教えてくれるってわけじゃなくて、先輩たちの後ろに立って盗めって言われたしね。誰も教えてくれない。

大西 毎日、毎日、懸賞プレゼントの発送をしてたね。

今井 僕、手伝いましたよ。

大西 プレゼントを集めるのも大変だったけど、たくさん応募もきたからね。大変だったよ。

山田 1週間に1万通は来てましたよね? ダンボール箱いっぱいのハガキが何箱も。凄かった。

壁村 耐三 ● かべむら たいぞう

1934年岡山県生まれ。1958年秋田書店へ入社。『まんが王』、『冒険王』の編集長を経て、72年に『週チャン』2代目編集長に就任。『ドカベン』、『がきデカ』、『マカロニほうれん荘』などを次々と大ヒットさせ少年誌ナンバーワン雑誌にする。81年に編集長を退くも、85年に5代目編集長として復帰。89年まで編集長を務める。『週チャン』50年の歴史のなかで2期にわたり編集長を務めたのはただひとり。98年に死去。

編集会議はしない!
多数決からヒット作は生まれない

第一期の頃の壁村さんの編集方針はどんなものだったんですか? 植木 編集方針も何も壁さんの特徴のひとつとして、絶対に編集会議を開かないから、オレらはなんもわかんない。

山田 そうそう。一回もやんなかった。

植木 自分の頭の中では編集会議をやってんだよ? 全部自分ひとりで決めちゃって、いきなり「この連載、終わりにするから!」って担当に言うだけ。

わかりやすいワンマンぶりですね。 大西青木山田植木今井

そういう人だから、名言も残したよ。オレが覚えているのは「編集会議は易きに流れる」ってセリフ。 植木 そういう人だから、名言も残したよ。オレが覚えているのは「編集会議は易きに流れる」ってセリフ。

今井 編集会議で、みんなが賛成した作品はヒットしないってことでしょ。よく言ってたよね。

植木 面白いことを言う人だな~って新人だったオレは思ってたよね。要するに多数決は常識的な作品しか生まない。多数決で決まったものは絶対にヒットしないってことを言ってたんだよ。名言だよ。

今のマンガの作り方とあまりにも違っていてびっくりです。確かに柔道マンガとして人気の『ドカベン』を、急に野球マンガにするって会議で多数決をとったら“反対”って結論になったでしょうね。 植木 会議しないからやれたんだよ! でも、壁村さんのやり方は相撲でいうところの“一代年寄”で誰も相続できないんだよね。

大西 私がジョージ秋山先生の『花のよたろう』を担当していたとき、ネームのなかに“オナニー”って言葉がはじめて出てきたの。びっくりして壁村さんに「どうしましょう?」って聞いたら、壁村さんはひと言。「ひらがなにしておけ!」って。

植木 ガハハハ。そこは壁村さんセンスあるな~。“オ●ニー”って伏字にするんじゃないのがいい。そういう言葉のセンスを持っていた方だよ。

山田 あと、マンガがアニメになるのを嫌ってたね。なんであんなに嫌がってたんだろう?『ジャンプ』の作品なんかはそこに力を入れて人気を得たのに、まったくアニメ化に興味を持たなかった。アニメの放送が終わったらマンガが売れなくなるって言ってたけど、そこには疑問を感じてました、僕は。

青木 本はよく読まれていたよね。一日一冊は読んでいたからね。

3代目編集長の阿久津さんと競争してハヤカワSF文庫を読破したって聞きました。 青木 壁村さんって、ヤクザみたいな人だったけど、ものすごく頭がいい人だったからね。だからこそ手塚先生とあれだけ話ができたんですよ。あの手塚さんが壁村さんのことは「壁ちゃん」って呼んでたんだから。手塚先生からは信頼されていましたよ。

植木 そうそう。あの梶原一騎先生だって壁村さんに親しげに話してたからね。“漢”と書いて“おとこ”と呼ぶようなイメージをマンガ家さんから持たれていたんじゃないかな。『750ライダー』の石井いさみ先生も壁村さんからの電話だとビシッとしてたし。

山田 あまりにも原稿が遅い手塚治虫先生にカッターナイフを突きつけたとかって都市伝説もあるじゃない? アレは本当なんですか?

青木 それは嘘だよ。そんなことはさすがにしないよ。でも、あるとき手塚治虫先生から編集部に「私のマンガ、マンネリじゃないですかね?」って電話がかかってきたときがあって、オレは「じゃあ、ちょっと壁村に繋げます」って電話を代わったんだよ。そこから壁村さんと手塚治虫先生は2時間近くずうっと話をしてたよ。そのときは壁村さんもお酒を飲んでるわけじゃないから、シラフでずっと。だから、手塚治虫先生はなんだかんだで壁村さんを信用していたし、壁村さんも手塚治虫先生を大切にしてたんだよ。なにしろ、『漫画王』でやった『ぼくの孫悟空』時代からの付き合いだからね。

植木 第一期壁村時代(1972~1981)はベテラン作家が多かったけど、あの方たちは全員、壁村さんを絶対的に信用しているところがあった。みんなどん底を経験したことがある方ばかりだし、そこを壁村さんに救われたと思っていたんじゃない? 手塚治虫先生は『ブラック・ジャック』を描く前は大変な状況だったわけだし。山上たつひこ先生も双葉社で『喜劇新思想大系』って凄いマンガを描いたけど、商業的には成功とまではいかなかったのを『がきデカ』でヒットしたわけだし。『750ライダー』の石井いさみ先生もだよね。

大西 壁村さんは家族主義というか一家を作ろうとしたんじゃないかと思うんだよね。マンガ家だけじゃなくて、編集部も。

植木 それはわかる! 『あばしり一家』じゃないけど、壁村さんが親分で、熊さん(副編集長)が叔父さんで、切れ者の阿久津さん(3代目編集長)が長男で、そこから次男、三男とね。たださ、ベテランのマンガ家を再生してヒットさせた一方で、鴨川つばめ先生が代表格だけど、新人たちを追い込んじゃったからね。壁村さんは推すと決めたら、とことんやるんだけど、それを受け入れるということは、増刊号、増ページ、カラーページを作家が描かなきゃいけないわけ。そりゃあ若い作家たちは疲弊しちゃうよ。新人たちが逃げ出すのもわかる。ウチでデビューして他社でヒットした作家は数え切れないよ?

山田 もうちょっと慰労しても良かったよね。長期連載をしていただいた先生から「山田くん、取材旅行とか一度もなかったね」って。そういうのを聞くと、ちょっとね……。

ギリギリの状態で作業するマンガ家さんと、壁村さんの元で面白さを追求する編集部員によって250万部を達成したんですね。 植木 結局は壁村さんがあのときの面白いものを知っていたってことなんだと思うよ。

今井 壁村さんが作った“チャンピオンイズム”は、誰もやっていないものを作る、常識的なものはダメだってことを徹底したことだと思うんです。なにしろ多数決を採用しないんだから(笑)。「みんなの総意はこれです」って言ったら「じゃあヤメよう」って言うんですからね。とにかく面白いものじゃないと雑誌に載せなかったのはあるんじゃないかな。

植木 好き嫌いも激しかったから、壁村さんが250万部を牽引したのは事実だけど、暴君すぎたところはあるよ。

今井 巨艦大砲主義だったから、大砲が沈むと一気にね……。

山田 あのときにもっと新人を発掘しておけばって思うけどね。

第2期壁村時代のはじまり
若い編集者を育てることに

1981年に壁村さんは編集長を退かれ、その後、1985年に再び5代目編集長として復帰されます。 植木 壁村さんが戻ってくるのは嬉しかったよ。それと同時に色んな人たちが編集部に合流してきて、活気が戻ったんだよね。

山田 しばらく編集部を離れていた大西さんが戻ってきたり、阿久津さんも副編集長として壁村さんを支えたり。

今井 一度、編集長をやった阿久津さんが副編集長をやるっていうのも壁村さんだからできたことだと思うね。

山田 壁村さんの2期は、編集方針がガラッと変わったよね? それまで誰の言うことも聞かなかったのに、いきなり「準備中の連載ネームを全部机の上に出せ!」って言ってさ。そこでオレは菊地秀行さん原作(『黙示録戦士』(作画:細馬信一)のネームを見せたら通ったんだよ。

編集会議をやるようになったんですね。 植木 編集会議じゃないよ! それはやんない。ただ、部員たちがどんな作品をやりたいか見ただけ。

大西 2期目になって自分ひとりのワンマンではできないって思っていたんじゃないかな。1期のときはオレひとりで全部やるって感じったけど、2期目は「これはお前らの本だ」って言ってたからね。だからこそ、ネームを見たりして若い編集者を育てようとしていたんだと思うよ。

今井 僕は一度、壁村さんに「うちは『ジャンプ』の“友情・努力・勝利”みたいなスローガン作らないんですか?」って聞いたら、「売れねえ雑誌のスローガン作ってどうするんだ!」って言われたよ(笑)。

植木 ガハハハ。言うだろうな。

山田 2期のときも、指針みたいなものは伝えられなかったし、なかったよね。ただ、読み切りを意識しろとはやっぱり言われた。ストーリーマンガで次週に続く作品でも、最後にちょこっとだけ、「え? 何?」って思わせるような“引き”を作れってさ。

植木 オレにはそんなこと一回も言ってくれなかったな。“情を壊すな!”とか抽象的なことしか言われたことない。

今井 それはオレもよく聞かされた。あと、壁村さんに目の前で原稿を読まれると緊張しなかった?

植木 するね。こっちが手を抜いたところを見抜く天才だからさ。

青木 前にテレビでやった『ブラック・ジャック創作秘話』ってドラマがあったじゃない? アレで壁村さん役をやった佐藤浩市さんは似てたよね? 怒鳴るシーンを見てドキッとしちゃったよ(笑)。

山田 青木さんが見て似てるんなら相当だ(笑)。

『本気!』の大ヒット 新しいジャンルにも挑戦!

当時の新連載を見ると、積木爆先生&木村知夫先生の『Let’sダチ公』、佐藤宏之先生の『プリーズMr.ジョックマン』、立原あゆみ先生の『僕はウィリー』、七三太朗先生&川三番地先生の『4P田中くん』など、80年代らしい作品が並びます。 植木 1期と違うのは壁村さんがそれまでやらなかったであろうタイプの作家さんを連載させたことだよ。その代表が立原あゆみ先生。立原あゆみ先生は神永編集長のときに少女マンガ誌から『週チャン』に来てオレが担当するようになったんだけど、壁村さんは全然乗り気じゃなかった。

青木 立原あゆみ先生には手塚治虫先生が病気で『ドライブラー』を描けないときに、ピンチヒッターで描いていただいたりしたんだよ。あれは神永編集長の時代だったけど。

植木 『風』ね。巻頭カラー40ページを3日間くらいで仕上げて頂きました。立原あゆみ先生は手塚治虫先生をリスペクトしていたからやってくれたんだよ。

その件は『牙人』の代原だと思っていました。病気で描けなくなったのは新作だったんですか? 青木 アレは『ドライブラー』って新連載をする予定で進めていたんですよ。のちに『ミッドナイト』ってタイトルで出直すんだけど。

そうだったんですね。 植木 それから半年くらいで神永さんから壁村さんに編集長が代わったんだけど、立原あゆみ先生は『風』の評判が良かったこともあって、「じゃあ、ちょっとヤクザマンガを描いてみるわ」っていきなり『本気!』のネームを10本描いたんだよ。

山田 マジで⁉ 連載前なのに?

植木 そう。それで連載がはじまって人気投票も良くて、単行本も1巻があっという間に重版がかかった。

山田 壁村さんの反応は?

植木 それがさ、それまでなんのフォローもなかったのに、単行本が売れた瞬間、立原あゆみ先生のところに「よう!」って挨拶に来てさ、一気にふたりは意気投合しちゃった。ガハハ。

『本気!』は大ヒットし、映像化もされました。 植木 立原あゆみ先生は本質的にネームの作り方が上手いから、壁村さんの読み切り志向にぴったり合致したんだよ。壁村さんとしては手塚治虫先生以来、情熱を燃やせる作家とようやく出会えたと思ったんじゃないかな。

山田 気心は合ったよね。白倉由美先生の『セーラー服で一晩中』の連載をOKしたり、新しいことをやって『週チャン』を変えようと思ってたんだろうね。

植木 『セーラー服で一晩中』はビックリしたな。1期の頃じゃやらなかったよ絶対、ガハハ。

今井 壁村さんはやっぱり他人の真似事は嫌だって気持ちと、常識を壊したいってポリシーがあったから、今までの漫画界にないものをやろうという発想だったんだと思う。

山田 新しいことをやれる人を見つける方向だったのかもね。

今井 話がちょっと逸れるけど、壁村さんと赤塚不二夫先生が一緒に飲んでいるときの話が無茶苦茶だったんだよね。あのふたりはトキワ荘時代からの付き合いなんだけど、当時はどっちが面白いか競い合ってて、酔っ払ったまま西武線の線路の上に寝っ転がって「どっちが先に目を覚ますか、競争しよう」って度胸試しをしたっていうんだよ。下手したら轢かれて死んでるよ? それを飲みながら笑って話してるわけ。壁村さんはいつも、“常識を壊せ”ってオレたちに言ってたけど、その常識の壊し方はちょっと真似できないって思ったよね(笑)。

大西 あの人たちはそういうことをやってたんだよね。みんな若かったよ。考え方が。

今井 赤塚不二夫先生も常識を壊さないと面白いものはできないって言ってたけど、壁村さんもそういう赤塚不二夫先生が好きだったんだろうね。

壁村さんの編集長時代には、赤塚不二夫先生、永井豪先生、山上たつひこ先生、鴨川つばめ先生、内崎まさとし先生と、ギャグ漫画で一世を風靡した先生たちが登場します。ギャグに強い『週チャン』の伝統は壁村さんから生まれているんでしょうか? 山田 山上たつひこ先生や鴨川つばめ先生は阿久津さんが担当だから、壁村さんとは一概に言えないけど。

植木 そこも含めて壁村さんは“持ってる人”だったんだよ。阿久津さんが部下にいたり、手塚治虫先生や赤塚不二夫先生と古くから親交があったりしたからね。

青木 ギャグで言うと『浦安鉄筋家族』の浜岡賢次先生も壁村さんが見つけたと言ってもいいと思うよ。彼は増刊号の原稿とか代原とか、5年くらいやってたから。

山田 あの人は凄いよ。

植木 浜岡賢次先生のチャンピオン愛は本物。でも、その才能を認めたのは壁村さんだよ。樋口さんのところに持ち込みに来た浜岡賢次先生の原稿を見て、「こいつはモノになるぞ」って言ったんだから。そういう見立ては凄かったよ。

2期でも壁村さんは多くの才能を発掘したわけですね。 今井 僕が印象に残っているのは、小山田いく先生。長野県の小諸に住まれていて、『すくらっぷ・ブック』、『ウッド・ノート』、『月チャン』でやった『星のローカス』とかたくさん担当して、ずいぶん長く付き合ったんだけど、なにしろ小諸だから原稿を取りに行くのが大変でね。終電を逃すたびに小山田いく先生と仕方ないって朝まで飲みましたよ。

青木 彼は天才だったよ。小諸にもよく行ったね。行くたびに、壁村さんから「だるま弁当」を買ってきてくれって言われてお土産を買ってきたなあ(笑)。

山田 壁村さん、「だるま弁当」好きだったんだ(笑)。意外だな~。

大西 新人発掘と言えば、中川いさみ先生が印象的だったな。彼がまだ芝浦工業大学の学生の頃だったんだけど、すごく面白くてね。結局、連載できなかったんだけど、とても印象深い先生だよ。

植木 大西さんと言えば、髙橋ヒロシ先生でしょう。

大西 いやいや。私と会ったときには彼はもう出来上がっていたから新人ではないよ。すでに少年画報社の『月刊少年コミック』でやってた作品が面白かったからね。

山田 でも、秋田書店にスカウトしたのは大西さんでしょ?

大西 そうだね。髙橋ヒロシ先生のところへ行って『月チャン』で連載をしないか? と声をかけたら、「こんな話があります」って見せてくれたのが『クローズ』のネーム。面白かったよ。

山田 それって凄いことですよ。『クローズ』は大西さんがいなかったら読めなかったかもしれないんだから。

大西 最初、壁村さんは『クローズ』ってタイトルはわかりづらいから『カラスの学校』にしろって言ってたんだよね。今から思うと言うことをきかなくて良かったよ(笑)。

常識はずれのマンガ家に付き合え!
新しいものはそこから生まれる‼

壁村さんが亡くなって20年以上経つわけですが、みなさんにとって壁村さんとは? 山田 いろいろ言ったけど、ここに集まった5人は結局、壁村さんに合ったんですよね? そう思わない?

今井 結局、壁村さんにすべて教えてもらったという気がする。若い頃、仕事で失敗して壁村さんに報告すると、そういうときの壁村さんってニコってして「お疲れさん。いいよ」って言うんだよ。オレは怒鳴られる覚悟で報告したのに微笑まれてさ。そこからオレは、失敗したら怒鳴られる人間にならないとダメだと思ったよ。「お疲れ」なんて言われたら情けなくてさ。わかる?

植木 壁村さんってそういうところあるよな。オレも自分の父親より壁村さんのほうが好きだったからね。書けないこともいっぱい知ってるけど、大好きだったよ。

大西 壁村さんが言ってたことで印象的なのは、マンガ家ってのは社会常識が欠落しているからマンガ家をやってるんだと。だからこそ、編集者はマンガ家を大事にしろって言ってた。それって、原稿が遅くなっても辛抱しろってことも含まれているんだよね。それを受け継いでるから秋田書店の編集は他社の編集よりも辛抱強いんじゃないかな。奇人変人主義じゃないけど、そういう作家が新しいものを作るんだって意識を壁村さんによって刷り込まれているから辛抱するというか。手塚治虫先生と最後まで付き合えたのもそういうことだと思うんだよね。

最後にみなさんにとっての『週チャン』ってどんな存在ですか? 青木 やはり『我が青春のチャンピオン』ですよ。最初から『週チャン』だったからね、それがすべてだった気がする。

山田 うん、すべてを捧げました。

植木 あの頃の『週チャン』編集部って、今の時代じゃありえないくらいブラック企業だと思うけど、嫌じゃなかったんだよ。好きだけど、嫌いっていうかさ、綺麗ごとじゃないな。

今井 壁村さん=週刊少年チャンピオンってことは変わらないけど、壁村さんがいた『週チャン』っていうのは、人を育てる場所だったんだと思う。人間って失敗するんだけど、そこで何を感じるかっていうのを壁村さんはニコニコしながら見てるんだよね。マンガ家さんに対しても、編集者に対しても、挫折のあとにどう乗り越えるかを見ている。壁村さんが居た頃の『週チャン』ってそういう場所だった気がする。

50周年を迎えた『週チャン』を今も天国からニコニコ眺めているんですかね? 青木 壁村さんがニコニコ見てるなんてあり得ない! 一同 ニコニコはしてない! 絶対に。それだけは言える(笑)。そんな人じゃないよ!

ニコニコはしてなくても見守ってくれていると思います(笑)。今日はありがとうございました!

壁村編集長時代に連載がはじまったおもな作品