2019.10.03

4代目編集長 神永悦也
(1983年10号-1985年16号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

「週チャン」創刊時の編集部員にして、秋田書店の少女漫画誌の礎を築いた超重要人物!!
ボーイズ&ガールズのハートを鷲掴みにした手腕に迫る!!

〈サンデーコミックス〉のヒットが
『週チャン』創刊を後押しした!

『週チャン』創刊時のことを覚えてますか?
そりゃあね。創刊号のとき編集部にいましたから。

そうだったのですね! 『週チャン』創刊が1969年です。
大学を出て、知り合いの紹介で1966年に秋田書店に入社しました。最初は『まんが王』の編集部でしたね。当時の編集長は手塚治虫先生の原稿が仕上がるまでどこまででも追いかけていったという逸話がある方で、先輩は成田さん。そのあと、『週チャン』を創刊するという話が出て、『週チャン』編集部へ異動になりました。

50年前の創刊時を体験されているわけですね!
そう。立ち上げたばかりの『週チャン』編集部は、編集長が成田さんで熊さんという方が副編集長。そして、私と千田くんの4人だけでした。

4人で週刊誌を作ってたんですか?
月2回刊のときはね。それでも人は足りないから結局、6人くらいになったかな。

当時、会社内で週刊少年誌を作ろうという機運が高まっていたのですか?
世の中的には前年に『ジャンプ』が出て、『サンデー』『マガジン』『キング』『ジャンプ』という週刊少年誌の時代になっていました。だけど、秋田書店が週刊誌を作るいちばんのきっかけは、私たちが入社した頃に出した〈怪獣画報〉と〈サンデーコミックス〉のヒットが大きいと思います。

新書版サイズの単行本のことですね。
当時、まだ単行本というのは少なかったんだけど、コダマプレスって会社が新書版サイズの単行本を出してたんだよね。だけど、それが早々になくなってしまった。そこで秋田君夫さん(秋田書店初代社長の甥)という方が、秋田書店でも単行本を出そうと音頭を取って出版したらそれが大ヒットしたんだ。

凄いことだったのですか?
今の単行本の原点みたいなものだからね。画期的だったのは秋田書店の作品だけじゃなく、小学館の『少年サンデー』や講談社の『少年マガジン』の終了していた人気作品をまとめて出せたこと。当時は雑誌メインで各社とも単行本は出していなかったんだよ。

ラインナップを見ると『忍者ハットリくん』や『鉄人28号』、『バンパイヤ』『どろろ』と人気作品がずらりと並んでいます。
特に『サイボーグ009』は売れたんだよね。それまでマンガは雑誌で読むものだという意識があったから、マンガ家さんも出版社もわりとすんなりOKしてくれたらしいんだよ。だけど、それが爆発的に売れたものだから、さすがに他の出版社も自分のところで単行本を出すようになったんだよね。

なるほど、それは困りましたね(笑)。
それで、他社の週刊誌の作品を出せないんであれば、自社で週刊誌を作ってしまおうと。68年に『プレイコミック』を創刊して、それの調子がよかったこともあってね。社内的に週刊誌を創刊する土壌ができてたんだろうね。

たった4人ではじめた『週チャン』創刊号

満を持しての週刊少年誌だったわけですね。
前年に『ジャンプ』が出てたから、やり方もそれに倣って最初は月2回刊でそこから週刊誌にしていくという話でしたね。

『週チャン』創刊号の表紙は沢村忠さんでしたがやはりキックボクシングの“チャンピオン”ということが理由ですか?
もちろん。彼は当時、凄く人気があったんだよ。テレビでも盛り上がっていたし、成田編集長から「沢村でいけ!」って言われて、私が沢村さんを追っかけたんだ。当時、彼は忙しくてね。スケジュールを調整したら「富山で試合があるからそこでなら取材ができる」というので、電車で富山まで行ったよ。彼の対戦相手のタイ人選手と一緒の電車でね(笑)。

では、表紙やグラビアの写真は富山で撮ったものなんですね。
いや、富山でも撮ったけど、表紙に使ったのは東京に戻ってきてジムで撮ったと思う。彼も少年誌の表紙ということで、“真空飛び膝蹴り”を披露してくれたり、好意的にやってくれたよ。

創刊号で神永さんの担当は?
表紙とかグラビアとか記事ページが多かったね。創刊号だと大藪春彦先生の小説に、かざま鋭二先生の挿し絵は私の担当だね。

創刊号を読んでいると、記事ページのイラストを『釣りバカ日誌』の北見けんいち先生が描かれていてビックリします。
北見先生はいい人でね。編集者が「こういう内容の記事が載るから、何かイラストを描いてほしい」と頼むと上手に描いてわざわざ会社まで持ってきてくれるんだ。あの頃、北見先生は赤塚不二夫先生のフジオプロにいたから、いろいろやってくれてね。今も会うんだけど、ずっと変わらず本当にいい人ですよ。

創刊時の『週チャン』について覚えていることはありますか?
それがまったく記憶にないんだよ(笑)。

忙しすぎて記憶が飛んでる⁉
うーん。成田編集長が原稿が遅れるとイライラするんだよね(笑)。覚えているのはそれくらいで(笑)。

1972年には成田編集長から壁村編集長に代わります。そのときのことは?
編集長が代わった瞬間からそれまでの連載のほとんどを読み切り形式にして、新連載を立て続けに起こしてガラッと変えちゃった。

編集長が代わるというのは大きなことだったんですね。編集部員の目からはどう見えていたんですか?
凄いなと思ってましたよ。だってあの頃の『週チャン』って大物作家ばかりだからね。そんな先生方にいきなり「読み切りにしてくれ!」って言うわけだから…。先生たちもよくOKしたと思うけど、そこはやっぱり先生たちも壁村さんのことが好きだったんだろうね。

『ドカベン』は読み切りではないですけど、柔道から野球マンガに変わりました。
壁村さんは水島先生のことが大好きで、会社も巻き込んで『ドカベン』を盛り上げてたよね。

当時から人気は凄かったんですか?
『週チャン』の中では常に1~2位だったけど、一般的にはまだ知られてなかった。だけど、山田太郎が野球をやりはじめた瞬間からグーンと世間でも人気が出て、知名度が抜群に上がったよね。水島先生はずっと野球マンガを描きたかったわけだから、そこがハマったんだろうね。

雑誌を飛び越えてお茶の間にまで浸透したわけですね。まさに改革者だったわけですね。
私も「巻頭グラビアにタレントとか女の子を使ったらいいんじゃないですか?」と進言してずいぶんアイドルやタレントと一緒に仕事をしました。タレント事務所に行って、使用しなかったレコードジャケットの写真を使わせてもらったりしましたね。

今では信じられないくらいアバウトですね(笑)。
そういえば、当時新人の山口百恵さんのグラビアを撮るのに、彼女の中学が終わるのを校門前でマネージャーと待ち伏せて、そのまま近所の公園に連れて行って撮影したなんてこともあったなあ。

何気に見ているグラビアにもいろんな苦労があるんですね。そのあと、『週チャン』は日本一の部数を誇る雑誌になるのですが、神永さんは1974年に異動をされて『プリンセス』の創刊に携わられます。

神永 悦也 ● かみなが えつや

1943年東京都生まれ。東京経済大学卒業後、1966年に秋田書店に入社。
『まんが王』を経て、『週刊少年チャンピオン』の創刊に携わる。74年には『プリンセス』、78年に『ひとみ』と共に創刊編集長を務める。83年から『週刊少年チャンピオン』編集長。

いきなり少女マンガ編集部へ 
約10年を経て編集長として復帰!

そう。新たに少女マンガ雑誌を立ち上げるからそこの編集長をやれと言われて、『プリンセス』の創刊号を創ることになりました。それまで少女マンガは読んだこともなかったから、大変だったよ。

再び神永さんが『週チャン』に戻って来られるのは1983年。約10年間、少女マンガ誌を作られていたわけですね。
『プリンセス』と『ひとみ』の創刊に携わったんだけど、やってみると少女マンガは面白かった。『ひとみ』もちょうど軌道に乗ったところに、『週チャン』に戻って編集長をやれ、と。最初は断ったよね(笑)。

断ったんですか?
『ひとみ』が面白かったからね。ここからもっと部数がのびるという気持ちがあったから。だけど、サラリーマンだから社長に“NO”とは言えないからね。

1983年の10号から編集長になられます。3代目の阿久津編集長から引き継いだわけですが、いちばん大きなトピックは、通算700号記念で水島新司先生が『大甲子園』を始めることです。水島マンガのキャラクターが一堂に会し甲子園で戦う、今で言うと“アベンジャーズ”のような夢の展開にワクワクしました。
『ダントツ』が終わってすぐ次の号から始めていただいたからね。話題にもなって非常に助かりました。水島先生には大変感謝してますよ。

『大甲子園』と同じタイミングでとり・みき先生の『クルクルくりん』も連載が始まり、編集長就任から一気にアグレッシブな誌面作りをされてますね。中でも特に印象に残っていることは?
うーん、たくさんあるけど、1984年の新年号にさいとう・たかを先生の『男どもの海鳴り』って読み切りを100ページでやったことかな。当時、週刊誌でそんなページをやらないからね(笑)。そこから『週チャン』の100ページ攻勢みたいものができたんじゃないかな。

今も板垣恵介先生がやられています。
あれは本当に先生方が大変なんですよ。

神永さん時代の『週チャン』では、のちに『本気!』を描かれる立原あゆみ先生が登場されるのもこの頃です。
立原先生は、私が『プリンセス』の編集長をしていた頃からの知り合いで、秋田書店の隣にあった『めじこ』って喫茶店によくいらしたので、そこでお茶を飲む中で何本か作品を描いてもらって付き合いがはじまりました。

当時の立原先生は少女マンガ誌を中心に描かれていたのが、いきなり少年誌の『週チャン』で描かれたので、ファンたちはびっくりしたと思います。
時代的に『タッチ』のあだち充先生とか少女マンガで描かれていた先生が、少年マンガに移籍してヒットを出すという風潮があったから、立原先生の作風なら大丈夫だと思っていました。そもそも『ひとみ』でやっていた『すーぱー・アスパラガス』は、平凡な男の子がアスパラガスを食べると美少女になってヒーローになるって話だったから、何かやってくれるという気はしていました。

『週チャン』の読者は、立原あゆみ先生といえば、『本気!』や『仁義』のイメージが強いと思うので、このエピソードは新鮮です。
立原先生との思い出で一番印象深いのは、やはり手塚治虫先生との話です。1985年の新年3号で手塚治虫先生の『牙人』を巻頭カラーでやることになっていたんだけど、先生が入院されて描けないことになってしまった。そりゃあもう、編集部は大慌てでね。それで誰か代わりはいないかということになったんだけど、もう締め切りまで1週間。そんなことができる作家はなかなかいないからね。

1週間前だと他の作家さんたちはみんなもう原稿アップしていますよね。
そう。それで当時、立原先生を担当していた編集部員の植木君に「立原先生に相談したら」と指示を出したんです。すると「他ならぬ手塚治虫先生のためならやる!」と二つ返事でOKを貰って、そこから『本気!』の前身ともいえる『風』が生まれたんです。

手塚治虫先生のピンチヒッターで描いた作品がのちの『本気!』シリーズに繋がっていくと思うとグッとくるエピソードです。
その『風』を『本気!』の連載に繋げたのは、私の次の編集長の壁村さんだから、それは凄いよね。

神永さんの時代は、新連載も多いです。
そうだったかな? 部数が下がっていたから、変えなくちゃ仕方がないっていうのはありました。『ジャンプ』も『サンデー』も『マガジン』も元気だったから、手を替え、品を替え、足を替え、いろんなことをやるんだけど、やっぱり上手くいってくれなかった感じはする。そこが壁村さんと違うところなんだろうけど。

いろいろなチャレンジのひとつに、神永さん時代の表紙を見ているとエリマキトカゲの表紙があって攻めてるな~(笑)と思いました。
まあ、あれはね(笑)。流行ってたんだよ。エリマキトカゲ。

さらに早見優、武田久美子、石川秀美、原田知世、荻野目慶子と王道のアイドル路線の表紙が登場してきます。創刊時にグラビアを担当されていた神永さんらしく、記事ページやグラビアが充実しているのも特徴ですね。
グラビアはね。でも、やはりマンガ雑誌はマンガが面白くないとダメ。あくまでもマンガが強くて、その彩りとして記事とかグラビアがあるのが理想だとは思います。

毎週、読みたい雑誌を作る 
ページをめくるワクワク感を!

神永さん時代の新連載を見てみると、新しいジャンルへの取り組みも多いと感じました。ご自身はどんなマンガがお好きだったのですか?
私は本格的な、じっくり心を打たれるマンガが好きだったね。わかりやすい例だと『ブラック・ジャック』だよね、うん。手塚先生には『ブラック・ジャック』の最後のエピソードを描いてもらいたかったけどね……。

新しいジャンルでいうと、小山田いく先生の『ウッドノート』はバードウォッチングものだし、どおくまん先生の『怪人ヒイロ』はオリンピックを目指すスポーツもの、柴田英行先生の『闇の密霊師』は新境地ホラーなど、いろんなジャンルを開拓されたように思います。
手探りでやって、当たったらって感じでいろんなことをやったね。

神永さんがマンガ作りで大切にしていたことは?
ページをめくるときに、次のページをめくりたい気持ちにさせること。ベテラン作家はそういうのが上手だから言わないけど、若手にはそこを意識するように伝えていました。ただ、今はスマホで読むことも多いだろうから、そこは今のやり方を考えなければいけないと思います。

毎週、続きを読みたくて1週間が我慢できないのが週刊マンガ誌のよさだと思います。
3か月待って単行本で読めばいいとか、ネットでいつでも読める時代だから、なんともいえないけど、アニメはみんな毎週見てるわけだし、そういう作り方をすればまだまだやりようはあると思うんだけどね。

神永さんの編集人生を振り返って今、思われることは?
ここで言うのは少し違うかもしれないけど、自分は少女マンガのほうが向いてたのかも知れない。『週チャン』の編集長時代はいろいろやってもがいてたけど、『プリンセス』と『ひとみ』ではヒット作にめぐりあうことができたからね。細川智栄子先生の『王家の紋章』『伯爵令嬢』、青池保子先生の『エロイカより愛をこめて』、『イブの息子たち』、そして池田悦子先生とあしべゆうほ先生の『テディベア』『悪魔の花嫁』。

どの作品も長寿連載の大ヒット作です。
『悪魔の花嫁』に関しては、それこそ私が『プリンセス』の編集長になってまだ少女マンガのことがよくわかっていなかったときに、少年マンガで流行していたつのだじろう先生の『恐怖新聞』や『うしろの百太郎』のようなホラーものをやりたいと思って、お願いしたんです。

『悪魔の花嫁』は、神永さんの少年誌時代の経験もあって生まれたわけですね。そういう意味では、立原あゆみ先生が『週チャン』で描かれるきっかけも、神永さんが少女マンガをやっていなかったら生まれなかったわけですからね。
どうでしょうかねえ。

最後に、50年を迎える『週チャン』に対してメッセージはありますか?
ヒット作がもっと出て、話題になってほしいという気持ちがある。『弱虫ペダル』がメディアで話題になっているとやっぱり嬉しいからね。いつも話題になるのが『ジャンプ』の作品ばかりだと……ねえ? やっぱり『チャンピオン』の作品がヒットしてほしいと思っています。応援していますよ。

神永編集長時代に連載がはじまったおもな作品