2019.10.17

“プラレス3四郎” 原作:牛次郎先生
作画:神矢みのる先生
レジェンドインタビュー

迫力ある戦闘シーンと、格闘技「プラレス」の斬新さが話題を呼び、多くの少年読者を熱狂させた大人気漫画「プラレス3四郎」。
当時の制作秘話エピソードや、作品に込めた想いを熱く語っていただいた!!

コンピューターで操作する人間型プラモデル「プラレスラー」同士のガチンコバトル・通称「プラレス」。そんなプラレスの世界で、プラモデル作りに情熱を燃やす中学生の少年、素形3四郎が、相棒のプラレスラー“柔王丸”とともに日本一を目指して大活躍するマンガ『プラレス3四郎』。のちにテレビアニメ化まで果たしたこの人気作品の原作者である牛次郎先生、作画の神矢みのる先生にアンケート取材をお願いしました!

まずは少年時代の思い出を教えてください。

牛先生  「幼少期は、東京大空襲で爆弾の落下する中を逃げまどっていました。
その後は一面の焼け野原で、死亡した人たちを焼く煙が幾条も立ちのぼっていた記憶が鮮明に脳裏に焼きついております。
いかに空腹を満たすかで、一日中食料を求めていた幼少期です。
それだけに戦争をするのは絶対に反対です。国が敗北するというのは国民にとって一番大変なことで、死体を数多く見てきました。
その戦争体験を若い人たちに伝えなくてはという思いが強くあります。そんなコミックを一度は描いておきたいと思っています」

神矢先生 「当時は月刊少年誌全盛の時代でしたが、毎月毎月買ってもらえる状況にはなかったので、近所の裕福な友人宅に入り浸ってはマンガをいろいろ読ませてもらい、友人とわら半紙に鉛筆でマンガを描いてはホッチキスで綴じて手製のマンガ本作って遊んでるというインドアな少年でした」

マンガとの出会いを教えてください!

牛先生  「少年時代に『イガグリくん』という福井英一氏の作品を夢中で読んでいました。柔道のマンガでした。週刊少年チャンピオンとの出会いは、水島新司氏とのコンビで『いただきヤスベエ』というのを執筆したのがきっかけだったと記憶しています」

神矢先生 「当時兄が『少年』(光文社)という雑誌を買ってもらっていたので、その雑誌に連載されていた『鉄腕アトム』(手塚治虫先生)や『鉄人28号』(横山光輝先生)を読んだのが最初でした。幼稚園くらいのときでしょうか。そのときの出会いに一生を決定されちゃった感じです(笑)
チャンピオンとの出会いはかなり遅く、中高生になってからですね。『あばしり一家』(永井豪先生)や時々掲載される手塚先生のSF短編が目当てでしたが、本格的に読み始めたのはやはり『がきデカ』(山上たつひこ先生)が始まってからですね」

デビューまでの道のりを教えてください。

牛先生  「いろいろな仕事をしてきましたが、作曲家をしていたときに、少年マガジンで原作をしてみないかと言われて『釘師サブやん』というのをビッグ錠さんと連載したのが始まりです」

神矢先生 「僕はプロのマンガ家になろうという特別な意識があったわけではないのですが、趣味でずっと描き続けていました。当時通っていた大学で偶然入った漫研がプロ志向の強いところでしたので、それに引きずられるかたちで持ち込みをするようになりました。当時の仲間には、しりあがり寿氏や喜国雅彦氏、祖父江慎氏なんかがいました。
それで就職が決まって卒業するときに、それまで描き溜めていたマンガをチャンピオンの新人賞に投稿したのがデビューのきっかけとなったんです。当時の職場に阿久津副編集長(のちの三代目編集長)から電話がかかってきたときの衝撃は今でも覚えています。
そして会社に通いながら『弾が行く!』を描いたのですが、当時勤めていた広告会社が毎日終電まで残業が続くようなハードな会社でしたので、さすがに体力の限界を感じて(というより絵が荒れてしまうので)マンガ一本に専念する決意をしました。
その後、『ボンバー弾』の連載をいただいたのですが、あまり反響がよくありませんでした。
それから一年くらいはお仕事のない日々が続いたのですが、どなたかが間に合わなかった原稿の代原を急遽頼まれまして5、6日でやけくそで仕上げたエッチなコメディーがなぜか好反響をいただき、おかげ様でなんとか今に至っております(笑)」

牛先生、『プラレス3四郎』のアイデアはどうやって思いついたのですか!

牛先生  「少年の好きなものとしてプラモとプロレスがありました。これに当時、オフコンといわれていたコンピューターを現在の人工頭脳のように取り込んで、リングの上でファイトさせてみたいというのが発想の原点です。当時の編集長の阿久津さんと数日も話し合いました」

実は、『プラレス3四郎』の中には、当時高校生だった牛先生のお子様(マンガ家/アニメ監督の志条ユキマサ先生)からのアドバイスもたくさん入っているそうです。

牛先生  「息子はプラモ作りの名人で、良い読者でした。参考になったことも随分とありました。今となっては良い思い出です」

神谷先生、原作シナリオをはじめて読んだときの感想を教えてください!

神矢先生 「原作ものはいろいろやらせていただいたのですが、これほど衝撃を受けた原作は他にありません。 一読目からウ~ンとうなってしまいました。なぜこのアイデアを考えつかなかったんだ~と悔しかったですが、いまだにあれを凌ぐアイデアは思いついてませんので完全に脱帽です」

『プラレス3四郎』のキャラクターたちが誕生したきっかけを教えてください。 牛先生  「連載を続けるのが精一杯で、今になってみると逆にどうしてそういうキャラを作ったのか自分でも不思議です。
プラキット竜、キーボードの女豹、不敵のからくりマックといった個性的なライバルは、どうやっても主人公が勝てないなと思える、強そうなキャラを意図的に作りました。
ライバルのキャラ(作り)に成功することが、作品の成功になると今でも思っています。
ドラマツルギーの基本術ではないかと思っています。
神矢みのるさんの描くキャラ絵にも刺激を受けました」

神矢先生 「僕は(牛先生原作の)『釘師サブやん』や『包丁人味平』が好きで、よく読んでおりましたので、牛先生はああいう濃ゆ~いクセモノで、職人みたいなキャラがお好きなんだろうな~と勝手に先回りしてあんなキャラばかり出したんですが、お会いしてみたら全然そんなことのない新しいもの好きな先生でした。
ですから、あれは完全にフライングな空振りキャラだったんですが、あとで息子さんの志条先生に聞いたら腹を抱えて笑っておられたそうなので、あながち無駄ではなかったかな、と」

原作・牛次郎 ● ぎゅうじろう

東京都出身。1970年、劇画原作者としてデビュー。「釘師サブやん」や「スーパーくいしん坊」などで一世を風靡。1982年に週刊少年チャンピオンで連載を開始した神矢みのる作画の「プラレス3四郎」が大人気を博した。

作画・神矢みのる ● かみやみのる

神奈川県出身。多摩美術大学卒。1979年の「ラスト・チェイス」が週刊少年チャンピオンでのデビュー作。その後、続々と作品を発表し、1982年に「プラレス3四郎」の連載を開始する。同作はアニメ化されるほどのヒット作となった。

『プラレス3四郎』を通して読者に伝えたかったことを教えてください。

牛先生  「“努力すれば、どんな難敵にも勝てる”ということ。明るい、夢のあるマンガにしたかったです」

神矢先生 「子供のころから読んできた熱血少年マンガを、自分なりの解釈でじっくり描いてみたかったんです。僕はこういう王道の少年漫画が大好きですので」

印象に残っている編集者を教えてください。

牛先生  「編集長の阿久津さんとは、毎日話し合い、クタクタになるまで話し合ったのを憶えています」

神矢先生 「壁村編集長(第二代、五代編集長)の武勇伝はあまりにも有名だと思いますが、他にもすごい編集さんはたくさんおられまして、新人のとき、ロビーの隣の席で新人さんの原稿を見ていた大塚副編集長(のちの七代目編集長)の舌鋒があまりにも鋭いので無関係のこちらまでちぢみ上がった思い出があります。なんて恐ろしいところへ来てしまったんだと(汗)。
あと、最初の担当だった伊藤さんが手塚先生の担当でしたので、原稿はいつも秋田書店ではなく高田馬場の手塚プロまで持っていって見てもらってました。手塚先生いらっしゃらないかなぁと心弾ませてたんですがお部屋にこもりっきりでお会いできる機会もなかったんですが、伊藤さんのここに住み込んでる感がすごかったです。歯ブラシまで持参してて(笑)」

連載が終了してもなお愛され続けていることへの感想を教えてください!

1985年に、惜しまれつつも連載が終了した『プラレス3四郎』。しかし、32年後の2017年、なんと本当にプラレスラーを作ってしまったファンたちの手で『第1回プラレス大会』が開催されてしまったのです! もちろん、その大会には牛先生も神矢先生も特別審査員として参加されたとのこと。こんなに長く愛されてきた作品の父であるおふたりに、その感想をうかがいました。

牛先生  「とにかく現実の科学の急速な進歩には驚愕の他ありません」

神矢先生 「いまだに忘れず作品を愛してくださっている皆さんには本当に感謝の思い以外にありません。こんなに長い間プラレスを愛してくださってありがとうございます。
プラレス大会に関してはまだまだ技術は発展途上ですけど、自分が生きている間にまさかこんなことが実現するとは夢にも思っていませんでした。
自分たちが描いた作品世界の中に入っていける経験をした作家というのはそんなにいないと思いますので、それはもう作家冥利につきますね」

ちなみに、神矢先生は実際にロボットの制作も手がけられているそうです。

神矢先生 「はじめたのはプラレスラーの分解図を描くときにどう描いていいかわからなかったので、その参考のためでした。
SFのスーパーロボットの内部メカみたいな感じで埋めちゃうのは簡単なんですが、それではいやだったんです。今すぐ手に入るかもしれない現実のメカと錯覚しちゃうようなものを描きたかったので。僕のロボット制作はホビーの延長の真似事ですけど、自分の作ったものが動き出す瞬間というのは何度やっても感動します。あ、これマンガ描くのと一緒ですね(笑)。
この世界で、自分のイメージの中だけにしかなかったものが現実に生まれ落ちる瞬間というのがたまらないんだと思います」

今だから話せる連載時の裏話を教えてください。

牛先生  「神矢みのるさんの作画の力量に圧倒されました」

神矢先生 「僕はいつも原稿が遅かったので、アニメの打ち上げとかに呼んでもらえなかったことですかね(笑)
というか、つい最近になってそういうものがあったことを知って愕然としております」

最後に、『週刊少年チャンピオン』へのコメントをお願いします。

牛先生  「50周年が100周年になることを切に希望しています。おめでとうございます」

神矢先生 「子供のころから読んでいた雑誌がいまだに続いてくれて、しかも一時期その雑誌に参加できたことがなによりも僕の誇りです。
いまだにチャンピオンは僕の母港のような存在です。チャンピオンがこのまま、100周年も150周年も続いて、読者を楽しませてくれることを願ってやみません」

マイコン(パソコン)の普及、空前のロボットプラモデルブーム、そしてプロレスの黄金時代でもあった1980年代初頭に、そのすべての要素や魅力をたっぷり詰めこんで誕生した奇跡のマンガ『プラレス3四郎』。その輝きは、時代がようやく追いついた現代でも決して色あせることはありません!