2019.10.17

“フジケン” ほか小沢としお先生
レジェンドインタビュー

週チャンで手掛けた不良漫画は数知れず!!
「バカだけど憎めない。バカだけどカッコイイ!!」そんな魅力的な不良たちを描いてきた週チャンのアニキ!!

過激な少年時代!!
常にみんなを笑わせてなきゃいけなかった。

『フジケン』『ナンバMG5』などの人気作品で知られる小沢としお先生は1968年生まれ、実家は中部地方でもゆびおりの歓楽街の、しかもど真ん中にあった。
「まわりは飲み屋とか、いかがわしい店ばっかり。ピカピカ光る看板を見て、大人はこの中でよからぬことをしてるんだろうなぁって子供ながらに思ってました」

夜ともなれば、酔っぱらいで通りはあふれかえっていたという。
「夜通し怒鳴り声がしたり、とにかくうるさかったですね。
その筋の方々がケンカしてるところを、友だちと見学してたこともありますよ。一方がドスを抜いて突っかかっていったんですけど、よけられて、こっちに向かってきちゃったもんだから、笑いながら逃げた記憶があります。人間って怖すぎると、笑っちゃうもんなんですね」

将来、不良マンガを描くにはうってつけの環境のようにも思えるのだが、当の小沢少年は、そっちの世界よりもお笑いやマンガに夢中だった。
「上の代は荒れてたんですけど、おれの代はとにかくおもしろくないと相手にされないんですよ。だから、常にみんなを笑わせてなきゃいけないし、そういうやつがイケてる、みたいな感じだったので、もしかしたらそのときの体験がコメディを描くのに役立っていたりする……のかな(笑)」

ちなみに、週刊少年チャンピオンとの出会いは小学校三年生のとき。
「耳鼻科の待合室に置いてあったんですよ。当時は少年マンガっていったら、『週刊少年チャンピオン』じゃないですか。『ドカベン』でしょ、『マカロニほうれん荘』でしょ、『ブラック・ジャック』には小学生ながらも考えさせられたりする話もあったし、あとは『がきデカ』が好きだったな。母親に二回捨てられて、三回買い直しました(笑)。自分の子供がいま小学生なんですけど、ずっとYouTubeを観てるんですよ。いつまで観てんだよ!って言いたくなるけど、きっとうちの母親もあの頃、こういう気持ちだったんでしょうね。
よく絵もまねして描きました。こまわり君(『がきデカ』主人公)ならいまでも描けますよ」

「おれらにも描けるんじゃね」

そんなある日、小沢少年はとんでもないものを発見する。友だちの家に集まって、いつものようにみんなで顔を寄せ合い『週刊少年チャンピオン』を読んでいたところ、誌面にこんな文字が躍っているのを見つけてしまったのだ。
『新人マンガ賞募集 大賞は賞金百万円』

「刈谷くんっていう友だちがいるんですけど、刈谷くんチでそれを見て、『おれらにも描けるんじゃね』って盛り上がったんですね。でも、なにをどう描いたらいいのかもわからないじゃないですか。そしたら刈谷くんのおばあちゃんが『じゃあマンガ家にきけばいいわ、トシくん』って言って、それがなぜか『手塚治虫先生にきこう』っていう話になって(笑)、言い出しっぺのおれが、電話帳に載ってた手塚プロの番号に電話したんですよ。それで確か『マンガって紙の片面に描くんですか、それとも両面に描くんですか?』ってきいたんですね。そしたら、たぶんスタッフの方だと思うんですけど、『それは片面に描くんだよ』って教えてくれて、『ありがとうございました』って言って電話を切りました」

その電話をきっかけに、小沢先生は脇目も振らずにマンガに打ち込み─とはならず、お笑い番組や読書に夢中というもっぱら健全な学生生活を送り、さらに大学卒業後から二十代の後半までは様々な職業を経験する。
「アパレルの仕事をしていたとき、仲良くなった職場の先輩にパチンコ誘われて、一緒にやってるうちに借金ができちゃったんですね。で、これいっぺんに返すには宝クジか、あるいはマンガしかないと(笑)」

小沢としお●おざわ としお

岐阜県出身。1998年『週刊少年チャンピオン』にて『フジケン』で連載デビュー。以降『ナンバMG5』や 『ナンバデッドエンド』、『Gメン』など不良をテーマにした数多くのヒット作を生み出した。

ここで唐突にマンガという単語が出てきたのにはわけがある。これより数年前、小沢先生はバイト生活のかたわら描き溜めたマンガを、とある青年誌に持ち込みしていたのである。そのうち何本かは増刊号に掲載されたこともあったのだが、本誌の連載にまではいたらず、いつしか編集部から足が遠のいていた、という事情があったのだ。
「(某誌には)二年くらい連絡してなかったので気まずくなっちゃって、かわりに当時、通勤途中に読んでいた『週刊少年チャンピオン』に投稿することにしたんですよ。それが“大きな賞”を取って」

“大きな賞”とは、小沢先生が入選を果たした第49回(1997年下期)『週刊少年チャンピオン新人まんが賞』のこと。子供の頃、胸をドキドキさせたあのページに、デカデカと自分の名前が載る日がやってきたのだ。しかも、そのページには、《期待の新星登場!!》や《小沢利雄(26)デビュー決定!!》など、あちらこちらに《!!》がちりばめられており、編集部から小沢先生によせられた期待の大きさをあらわしていた。
……だが、ひとつ疑問が残る。1968年生まれのはずの先生が1997年の時点でなぜ(26)=26歳なのだろうか?

「いやあ、若く言ったほうが、賞を取りやすいと思って」

恥ずかしそうに頭をかきながら、とんでもないカミングアウトをはじめる小沢先生。取材に同席していた当時の担当編集者も苦笑する。 担当氏 「『フジケン』の連載が決まって、当時の編集長と自分と小沢先生の三人で、ホテルの喫茶店でお茶を飲んでいるとき、編集長がふと『小沢くんって、いくつだっけ?』ってたずねたら『ぼく、29歳です』『26歳じゃないの!?』『言い出しにくくて、ずっと言えなかったんですけど。実は……』(笑)。もう編集長と二人でひっくり返りましたよ」

翌98年にはいよいよ『フジケン』の連載がスタートする。担当編集者の記憶によれば、連載開始そうそうから人気が出たとのことなのだが、小沢先生は「当時のことはあまり覚えていなくて」と笑う。
「のんびりやれたのは最初の一年くらいで、二年目からは月刊もやってたから(『月刊少年チャンピオン』で連載されていた『いちばん』のこと)、とにかく忙しくて」

次々と新しい仕事が舞い込んでくるのは人気作家の常とはいえ、デビュー二年目の新人が週刊と月刊の作業を同時並行で進めるのは、並大抵のことではないはず。記憶くらいあいまいになっていても仕方がないことかもしれない。
「うーん。覚えているのは、当時つきあっていた彼女に振られたときに、担当さんにめっちゃ慰められたくらいですね」 担当氏 「先生は落ち込み出すと本当に長いんですよ。打ち合わせはいつもファミレスでやるんですけど、そういうときでも『おかゆっぽいものしか食べられない』って言って、ドリアばっかり頼んで」 「全然、おかゆっぽくないよ! むしろコッテリしてるよ(笑)」

ぼくの人生も違ったものになっていたかも

小沢先生にとってチャンピオンは仕事場であり、最高の愛読誌でもあった。
「『東洋妖人伝用神坊』(いとう杏六先生)、『柔道放物線』(今井智文先生)に『鉄鍋のジャン!』(西条真二先生)。『おまかせ!ピース電器店』(能田達規先生)はめちゃめちゃ絵がうまいと思ったし。あとは『エイケン』(松山せいじ先生)! 世間では松山先生のマンガって巨乳のイメージかもしれないけど、ぼくは松山先生の描くお尻が好きでした。『フジケン』の中で音読させたくらい(笑)。」

その一方で、これらの作品を「ライバルと思ったことはない」ともいう。
「やっぱり自分のできることしかできないというか、そこまで余裕がないというか(笑)。たぶん、自信があったらそういう発想も出てくると思うんですよ。ぼくは迷い迷いしながら、ここまで来た感じですね」

そして最後に、50周年を迎えた『週刊少年チャンピオン』へ先生からメッセージをいただいた。
「生まれてはじめてハマッた雑誌が『週刊少年チャンピオン』で、その『週刊少年チャンピオン』で連載させてもらって、少なからず運命的なものを感じています。本当にめちゃめちゃ感謝してますよ。『週刊少年チャンピオン』にも、編集さんにもね。
考えてみると─いままで、そんなに考えたことはなかったですけど(笑)─あの小学校三年生のときに耳鼻科で『週刊少年チャンピオン』を読んでなかったら、ぼくの人生も違ったものになっていたのかな。それから四十年、こんなに長くお世話になるとは思っていなかったけど、一日でも長く続けられるように、これからもお互いがんばりましょう!」