2019.10.10

6代目編集長 岡本三司
(1989年32号-1994年37+38号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

今回は6代目編集長・岡本三司氏に直撃ジャストミート!!「浦安鉄筋家族」に登場する「王様」のモデルになった男は
若手編集者をのびのびさせ様々なヒット作を送り出していた!!

連れて行かれたのは『どろろ』執筆現場

よろしくお願いします!
オゥ! 歴代編集長に会ってるんだって? みんな元気だったか?

みなさんお元気で熱い話が聞けています。
そりゃあイイ!

岡本編集長といえば、やはり手塚治虫先生とのエピソードを最初に伺いたいのですが?
いきなり来たな(笑)。あんな体験は今、思い返してもなかなかできないからな。あれは凄い経験だったぞ。それこそ入社してすぐに手塚先生のところへ連れて行かれたんだから。

わお。それは羨ましい!
何が羨ましいものか。仕事じゃないからそんなことを言えるんだよ。こっちは大学出たばかりの若造だぞ? それなのにいきなり「お前は今日から手塚治虫先生の担当だから、原稿を取ってくるまで帰ってくるな」って言われたんだぞ? これがどういうことかわかるかい? あの手塚先生だぞ?

そ、それはちょっと責任が重すぎます……。なぜ、そんな大役を新人が担うことに?
こっちが聞きたいよ(笑)。入社して最初に配属されたのが『冒険王』編集部で、そこで手塚先生が『どろろ』を連載していたんだよ。当時、手塚先生は大忙しだったから、原稿を貰うのが大変で、体力のある若い奴が必要だったんじゃないか?

最初に手塚先生にお会いしたときのことを覚えていますか?
当時、手塚先生は富士見台駅前にある喫茶店の上の階が仕事場だったんだ。事務所に入ったらもう各社の編集者が10人以上ギュウギュウ詰めで座ってるんだよ。タバコを吸ったりしてさ。よく見たら、小学館、講談社、朝日ソノラマ、実業之日本社……マンガを出してる出版社の編集部員が勢揃いしてる。「ええっ‼」と思ったよ。

手塚先生とご挨拶は?
最初は副編集長がついてきてくれて、手塚先生に「これから担当は岡本になります!」って紹介してくれたんだけど、先生は「岡本氏ですか、はい」ってそれだけ。副編集長は「じゃ、あとは頼んだ!」って編集部に帰っちまった。

ということは?
その編集者たちの巣窟にたったひとり残されたよ。オレが与えられたのは“手塚先生の原稿を受け取るまで、編集部に帰ってくるな”って任務。もうさ、周りの編集者は怖いから、こっちはメシも食えないよ。隅っこのほうにずっといてさ。これだけは言えるけど、手塚番をやったら、何も怖くなくなるぞ! その経験があったから、オレはそれからの人生で怖いことなんてなかったからな。

凄いプレッシャーで原稿を受け取って来られていたんですね。
まあ、それも慣れてくれば、こっちが偉そうになってくるんだけどな。3年もすれば他社の新人を「おぅ! 来たか」みたいな感じに呼ぶようになるんだから(笑)。でも、その新人時代に少年画報社の手塚番だった黒川さんから「お前、何か食わないとカラダ壊すぞ」って声をかけてもらったことは忘れないな。嬉しくてその一言で涙が出てきたもんな。それくらい手塚番は孤独感と疎外感があったよ。なにしろ会社に帰れないんだからさ……。

編集者同士はバチバチ だけど一枚岩だった!

新入社員でいきなり手塚先生の担当を経験することは大変なことだったんですね。秋田書店への入社は1969年ですが、『週チャン』に配属になるのは何年からですか?
『冒険王』には最初の1年だけだから、1970年にはもう『週チャン』編集部にいたな。でも、なぜだか創刊号のことはよく覚えている。編集部にはまだいないんだけどな。

それだけ社内で週刊少年誌を作ることが盛り上がっていたからではないですか?
そんな浮ついた感じはなかったな。ほぼ同じ時期に『プレイコミック』(1968年)も創刊していたし、オレとしては「週刊誌やるの?」って感じだった。まあ、成田編集長の気合いは凄かったけどね。

岡本さんが配属になるのは月2回刊から週刊になってからですか?
そうだったと思う。オレが『週チャン』に異動して、しばらくしたら成田さんから壁村さんに編集長が代わった。当時の編集部には優秀な奴が揃っていたから、何か変わる予感がした。

編集者同士も一丸となって『週チャン』は黄金時代を迎えていくわけですね。
編集者同士の仲は良くないよ(笑)。みんな「あいつが担当してる作品が一番かよ、バカヤロー」とか言ってさ(笑)。編集者同士はそういうもんだよ。人気投票も気になるしさ。でも、その連中が『ドカベン』、『あばしり一家』、『恐怖新聞』、『バビル2世』、『魔太郎がくる!!』をやるんだよ。

凄いですね。『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』もそこに加わるわけですもんね。
『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』や『750ライダー』はそのあとだな。

岡本さんは何を担当されていたんですか?
オレは水島新司先生の初期と、ずっと手塚先生だよ。『ミクロイドS』、そして『ブラック・ジャック』だな。

岡本 三司 ● おかもと みつじ

1946年東京都生まれ。同志社大学卒業後、1969年に秋田書店に入社。
『冒険王』を経て、『週刊少年チャンピオン』へ。『ボニータ』、『エレガンスイブ』を経て、89年から『週刊少年チャンピオン』編集長。

手塚先生とのエピソードで印象的なことは?
『ミクロイドS』のときかな、手塚先生が壁村編集長とオレを食事に招待してくれたんだ。一緒にメシを食うのは珍しいことじゃなかったんだけど、正式に招待してくれるってことは珍しいことだったから嬉しかったね。しかも2軒目まで付き合ってくれてさ。そのお店っていうのが、先生の知り合いがはじめた店で、生演奏のバンドが入ってる店だったんだよ。壁村さんは『旅姿三人男』なんかを歌ってご機嫌でさ、そうしたらお店の人が「本日は手塚治虫先生が見えてらっしゃいます。せっかくですから先生も一曲お願いできますか?」なんて紹介するんだよ。こっちは「おいおい」なんて思ってたら、先生が謙遜しながらもお店のピアノの前に座ってさ、おもむろに弾き出したのが『ゴッドファーザー 愛のテーマ』。

え~カッコいい!
だろ? しかもそのあと3軒目まで付き合ってくれてさ。あんなことは初めてだったからびっくりしたね。それからすぐに『ブラック・ジャック』がはじまるんだよ。

手塚先生の『愛のテーマ』、聴いてみたかったです。
その頃、手塚先生は虫プロのことで大変だった時期だからな。『ブラック・ジャック』は手塚先生が壁村さんのところに持ち込んできて、壁村さんがオレに「お前、担当だからな」と言ってはじまったんだ。

『ブラック・ジャック』を最初に読まれたときの感想は?
最初は面白いのかな?って思ったよ。売れるわけがないとも思ったね。

ええ? 『ブラック・ジャック』ですよ?
それはリアルタイムで読んでいるわけじゃないからだよ。まさかヒットするとは思えなかった。

そういう感じだったんですね。
ただ、劇画的なアプローチをしていたことと、読み切りで、なおかつそれまでの手塚キャラクターが総出演している目新しさはあった。

岡本さんがヒットを確信したのはいつですか?
連載半年後くらいに諸事情で新作を掲載できないことがあって、再録を載せたことがあったんだよ。そうしたら秋田書店中に「詐欺だ!」「金返せ!」ってクレーム電話が鳴り響いて、こっちは「こんなに読んでいる人いたの?」ってびっくりだよ。

それまでは反響はなかったんですか?
オレたちが反響の基準とするのは雑誌のアンケートハガキなわけだけど、当時の人気は10~12位くらいで決して人気作ではなかった。だけど、アンケートってプレゼントのおもちゃが欲しい子どもが書いて送ってくれるわけで、『ブラック・ジャック』を読んでた読者はオトナや女性でアンケートを送ってくる層じゃなかった。それが、一回載らなかったことでアンケートの外側にいるファンの存在をオレたちは知ったんだ。

単行本は売れてなかったんですか?
当時、単行本の部数なんて気にしていなかった。壁村さんもあんまり気にしてなかったと思うよ。結局、その一件から、少しずつ雑誌の人気投票も上がってきて、手塚先生の大復活作になるわけだけだけど、そのタイミングでオレは、『週チャン』を離れるんだよ。

15年間のブランク 空白を埋めるための奇策

70年代中盤から80年代は『週チャン』を離れて、秋田書店の少女誌や、女性誌などで様々なキャリアを積まれます。『週チャン』編集部には1989年に編集長として戻って来られます。
戻るまで15年だよ? もう42歳になってたよ。オレはずっと編集長やるなら30代でやらせてくれって言ってたんだよな。それはなぜかというと、30代が編集者としての勘、感性的なものが一番いい時期だと思うからさ。だから15年間、少年誌を作っていなくて、いきなり編集長をやれって言われたときは躊躇したね。編集部の顔ぶれも知らないし。

編集長になって最初に手がけられたことは?
なんもしないってこと。変な意味に聞こえるかもしれないけど、オレ色に染めることは止めようと決めていた。今ある戦力を充実させることに特化しようと考えていたとでもいうのかな。編集長のタイプって二通りあると思うんだよ。ひとつは自分色にいろいろテコ入れして変えちゃうタイプと、そうじゃないタイプ。オレは変えないタイプ。

意外です。
そうか? 70年代の『週チャン』の調子がよかったときって、壁村さんが凄いというよりも編集者が凄かったんだよ。壁村さんはオレたち若手にのびのびやらせてくれていたから、良い相乗効果を生んでたんだ。だからオレも、新人の編集部員だった沢(「グラップラー刃牙」初代担当)、高田(「シャカリキ!」初代担当)、伊藤(「浦安鉄筋家族」初代担当)らを筆頭にした若い編集者たちの爆発力に期待したんだよ。

若い世代に力をいれたわけですね。
自由にさせただけだな。結果、板垣恵介先生や曽田正人先生、浜岡賢次先生が『週チャン』の力になってくれた。

板垣先生は『グラップラー刃牙』を連載し、曽田正人先生は『シャカリキ!』を連載されました。若い編集者に伝えていたことはあったんですか?
気迫のある、やる気のある作家にアプローチしろってことかな。やっぱり板垣先生は最初から凄かったな。今とまったく変わらない(笑)。とにかくハングリーさが伝わってきたからね。まあ、それは今も変わらないみたいだけどな(笑)。

最初から凄かったんですね。
あと、きくち正太先生の絵は好みだったな。『三四郎²』とかよかったよ。あの先生は上手いんだよなあ。

当時の表紙を順番に見ていくとベテラン勢と新人勢のバランスがとても良いと思います。水島新司先生の『おはようKジロー』、立原あゆみ先生の『本気!』、七三太朗先生&川三番地先生の『4P田中くん』を軸にしながらも、板垣先生の『グラップラー刃牙』や曽田先生の『シャカリキ!』、浜岡先生の『4年1組起立!』、きくち先生の『三四郎²』といった新しい作品がバランスよく加わっています。
浜岡先生もいいなあ。表紙からだけでも意識の高さが伝わってくるよ。山口譲司先生の『その気にさせてよ♡myマイ舞』も良かったな。

スポーツ、ギャグ、ラブコメ、それに人情ものとバラエティも豊かでした。
まさき拓味先生やみやたけし先生も良質なマンガを描いてくれたよ。小山田いく先生は亡くなってしまったけど、彼には本当にお世話になったな。急遽、ピンチヒッターが必要になったときにはいつもお願いした。人柄がよくてな。うん……。

岡本さん時代の『週チャン』では、格闘技企画が増えます。お好きだったんですか?
沢が格闘技が好きで担当してて、オレも好きだったから、正道会館の石井館長や『格闘技通信』の谷川貞治編集長とはよく飲みに行ったよ。

その流れが『となりの格闘王』になるわけですか?
そうかもな。担当は沢だったが、よく編集部に佐竹雅昭が遊びにきていたよ。あのマンガは西条真二先生が絵を描いているんだよな。

表紙に使われている格闘家の写真が『格闘技通信』と似ていて、『週チャン』編集部との近さがファンの間で指摘されていました(笑)。
あれはね、うちで撮影した写真をよく貸し出してたんだよ(笑)。谷川さんがニコニコしながら「ちょっと貸してください~」なんてくるからね。

―まさかの逆輸入(笑)!?

まだ見ぬ手塚治虫はいる マンガには夢がある

当時はちょうどバブル時代と重なるわけですが、『週チャン』に影響はありましたか?
ないよ!

会社的にもですか?
まったくないね。ここで言うことじゃないかもしれないけど、『週チャン』はずっと苦しかったよ。世の中がバブルだなんだっていっても関係なかった。きっと歴代の編集長で楽しかったって人はいないと思うぞ。

他社からビッグネームを引き抜くこともなかったんですね。
お金をかける競争だと秋田書店は絶対に勝てないからな(笑)。だからこそ、同人誌即売会に足を運んだりして新人を探す方向にしたんだ。

結果的に、岡本さん時代にちょっとだけですが部数が上がっています。
お金をかける競争だと秋田書店は絶対に勝てないからな(笑)。だからこそ、同人誌即売会に足を運んだりして新人を探す方向にしたんだ。

結果的に、岡本さん時代にちょっとだけですが部数が上がっています。
それは浜岡先生の力が大きいんじゃないか? 『4年1組起立!』で子どもたちを掴まえてきたんだと思うんだよ。それまでいなかった若年層を浜岡先生は連れてきてくれた。

編集長時代のことを今、振り返られていかがですか?
オレは自分にはセンスがないと思ってる。具体的に言うと、編集長になったときに少年誌を作るセンスは“枯れている”と思っていた。さっきも言ったけど、30代までは作家と読者と一緒にマンガが作れるんだよ。同じ土俵の上で意見を戦わせることができるんだ。だけど、40歳を超えてしまうと、それが厳しくなる。しかもオレは15年間も少年誌から遠ざかっていた。そのブランクは埋めようがない。

ちょっとオトナになりすぎていたということですか?
マンガを読む目が客観的になっちゃうんだよ。担当者っていうのは主観じゃなきゃダメ。だからこそ、オレはその部分を若い編集者に任せたわけ。若手の“これが面白い”って主観とマンガ家の“ハングリーさ”が出会ったときにヒット作が生まれるんだよ。オレはそれをやっただけ。オレ自身にはセンスはないんだ。

岡本さんが若い編集者を育てていたというのはわかりました。新人が仕事で成功するためにやったほうがよいことってなんだと思われますか?
自分で仕事を作ること。上からあれをやれ、これをやれって言わないと企画を持ってこない奴はダメだよ。自分で仕事を作る編集者はのちにヒット作を生んだね。

岡本さん時代の直前に消費税がはじめて導入されて、100円代から200円に雑誌の値段があがりました。
あれは嫌だったな。オレには壁村さんから受け継いだ思想があって、“子どもたちは少ない小遣いを削って雑誌を買うんだから絶対にいいマンガを載せなきゃダメだ”ということを叩き込まれているんだよ。だから……本当に……定価を上げるのはつらかったね。値段の話とはちょっと違うけど、針金で留めていた背表紙を危ないから、無線綴じにしたり、そういうことはやった。値段は上げるのは本当に心苦しかったよ。

200円になったあとはずっと特別サービス値段と表示されていました。
できる限りページ数を増やしたりして頑張ったんだよ。値段を上げたんだから、中身のボリュームでなんとかフォローしようと思ってな。

最後に50年を迎えた『週チャン』に向けて伝えたいことは?
若い編集者は自分がいいと思ったことを押し出すこと。優秀な編集者が7人いると(雑誌が)変わるよ。紙の時代は終わろうとしてるかもしれないけど、まだ手塚治虫はどこかにいる、水島新司はどこかにいるよ。どこからかそのエネルギーが出てくるはずだとオレは夢見てる。

熱い言葉です。
だって50年前、オレたちが作った漫画雑誌が200万部を超えるなんて思わなかったんだよ。だけど、それが実現した。『ジャンプ』なんて650万部だぞ? それだけの人がマンガを読んでくれていた時代があったわけだから、マンガにはまだ夢があるよ。だから読者のみなさんにはマンガって面白いから、マンガを読もうぜ! 一緒にマンガを育てようぜって言いたいね。

その通りですね。ありがとうございます。
マンガほどダイナミックなものはないと思うからね、マンガが一番エネルギーがあるとオレは信じてるよ!

岡本編集長時代に連載がはじまったおもな作品