2019.10.03

初代編集長 成田清美
(1969年創刊号-1972年25号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

おかげ様で創刊50周年を迎えた週刊少年チャンピオン!!毎週木曜日に明るく、楽しく、激しい誌面をお届けし続けてきた半世紀!!
汗と涙と愛にまみれた、その歩みを振り返るべく全10代にまたぐ歴代編集長へのインタビューを大決行!!

『冒険王』から『チャンピオン』へ
週刊誌創刊への高いハードル

こちらが50年前の創刊号です!
いやあ、懐かしいなあ。もう50年も経ったか。50年もよく維持できたもんだ。

維持しています! そして現在の『週チャン』がコレです!
ほお。これが。ずいぶん厚いなあ(笑)。これを作るのは大変だろう?

創刊当時のほうが大変だったのではないですか?
うん、それは大変だったよ(苦笑)。

『チャンピオン』の創刊は1969年です。当時は、『サンデー』、『マガジン』、『キング』という週刊誌がすでに存在していて、前年には『ジャンプ』も創刊されています。『チャンピオン』は一番後発でした。
最初は週刊じゃなくて月2回の刊行だったんだよ。

そうなんですか?
当初から週刊誌にする方針でしたが、なにしろ初めてのことだからね。準備期間として月2回でスタートしたんだよ。

なるほど。確かにいきなりでは大変ですからね。成田さんは『週チャン』編集長になる前はどんなことをされていたのですか?
私は最初、小学館でバイトをしていたのですが、自分でまんがの本を作りたいと思って秋田書店に入ったんだ。

マンガがお好きだったんですか?
好きでした。マンガの編集には昔から興味があったので、秋田書店に来れたのは嬉しかった。

最初は月刊誌の『冒険王』に配属だったとか?
はい。とにかく忙しかった。がむしゃらにやっていくうちに手塚治虫先生や石森章太郎(石ノ森章太郎)先生と付き合うようになったんだ。

『冒険王』も当時の人気マンガ家がずらりと並ぶ秋田書店の看板雑誌ですよね。
話はちょっと変わるけど、私と妻はお見合い結婚だったんだけれど、妻が私を選んだ理由は編集者ってカッコいいなと思ったからだそうでね。

いいエピソードです(笑)。
それで、次は「チャンピオン」を創刊するからその編集長をやれと。ついに編集長にまでなったもんだから妻は大いに喜んでくれたんだよ(笑)。私が31歳のときでした。

31歳で編集長だったんですか⁉
当時の出版界でいちばん若い編集長ということで新聞で取り上げられたり、テレビで取材されたりもしました。

それは取材対象にもなると思います!!
社長たちも協力してくれて、社内でも特にマンガが好きな編集者を集めて体制を整えてもらったので、編集部一丸となっていましたよ。

漫画界のチャンピオンを目指せ! 
作家・編集部が一丸となった時代

『週チャン』を立ち上げられるときのコンセプトや、テーマなどは?
それはもう『チャンピオン』を漫画界のチャンピオンにしてやろう、王者にしてやろうってことに尽きる。

おおっ! それは熱いですね!
編集部にはマンガ好きの奴らが集まっていたから、活気がありました。しかも週刊で勝負するぞってことでみんな一生懸命やってくれたんだよな。

熱いチャンピオン魂はそこからなんですね。
当時の社長の息子の貞美さん(現秋田書店最高顧問)や、後に編集長をやる壁ちゃん(壁村耐三氏)なんかとも兄弟のように付き合っていたくらい、編集者同士の距離が近くてね。あの頃、秋田書店の倉庫が西荻窪にあったんだけど、私たち夫婦はその倉庫の横に住んでいて、よく部員が遊びに来たよ。

アットホームな会社だったんですね。それは今も変わらない感じがします。
ほぉ、そうかい(笑)。

「チャンピオン」という雑誌名はどういう経緯で決まったのですか? 他にも候補はあったのでしょうか?
私が最初から決めていました。この雑誌を漫画界の「チャンピオン」にしようという思いを込めてね。「チャンピオン」以外は考えてませんでしたよ。秋田書店の近所にある少年画報社から『キング』って雑誌が出ていてね。そこに対するライバル心もありました。「キング」よりも「チャンピオン」。追いつき、追い越せという気持ちでね。

創刊号の表紙は“キックの鬼”の異名で知られるキックボクシングの王者・沢村忠さんです。そのあとには王貞治さんやジャイアント馬場さんらが続きます。
とにかく表紙は人気者に登場してもらおうと、当時人気絶頂の沢村さんにお願いしました。王さんや馬場さんも「各界のチャンピオン」ということでご登場願いました。

成田 清美●なりた せいみ

1938年3月12日福島県生まれ。
1958年秋田書店入社。『冒険王』編集部を経て、『週刊少年チャンピオン』の創刊編集長になる。

週刊誌を作っていくなかでいちばん苦労したことはなんですか?
そりゃあ週刊で漫画雑誌を作るというスケジュールだ。なにしろ毎週、校了しなくちゃいけない。それは大変でしたよ。それまで月刊誌しかやっていなかったからね。私たちに締め切りが来るということは、もちろんマンガ家にも締め切りがあるわけで、原稿が上がるまで毎週ずっと仕事場で待っていたよ。

今はネットで入稿される先生も多いですが、当時は全員手渡しが基本です。ネットどころかFAXもない時代だと思うと、原稿を受け取る苦労は今以上ですね。
編集者が命を懸けましたってくらいじゃないと原稿が上がらないんだよ。みんな泊まり込みでね。あとはやっぱり連載陣をどうするかではおおいに悩んだ。

確かに有名な作家さんはすでに『サンデー』や『マガジン』で描いているし、新人は『ジャンプ』に流れているという状況ですよね?
そのとおり。

とはいえ、創刊号の連載陣は豪華です。手塚治虫、梶原一騎、さいとう・たかを、赤塚不二夫、永井豪、ジョージ秋山と錚々たる顔ぶれです。
それはもう、創刊前から先生方のところへしょっちゅう通ってね。毎日のように行くもんだから先生たちも協力してやろうって気になったんじゃないかな。

創刊号の目次を見るだけでワクワクします。なかでも永井豪先生は『ジャンプ』で『ハレンチ学園』を連載中のタイミングです。週刊連載を2本もやられていたんですね?
『あばしり一家』は私が提案したんですよ。

極道一家が町に引っ越してきて大騒動を巻き起こすギャグマンガです。かなり刺激が強い作品です。
奥さんからは「子どもたちが読む本なのに大丈夫?」って言われましたけどね(笑)。だけど、マンガ家には好きに描いてもらおうというスタンスでした。

他誌でも描かれている手塚先生や赤塚先生から原稿をもらうのは大変だったのでは?
早いもの勝ちだから、他誌の編集より先に先生のところへ行ってとにかく描いてもらわないと。だから売れている作家から原稿をいただくのは大変。

成田さんが担当されていたのは?
貝塚ひろし先生、ジョージ秋山先生の2人ですね。ただ、担当以外の作家さんも原稿が遅い場合は私が行きましたよ。水島新司先生のところへも行きました。

水島新司先生は創刊間もない1970年に『銭っ子』を連載されています。
そう。『銭っ子』。

そのあと、『いただきヤスベエ』を挟んで、1972年から『ドカベン』を連載されます。『ドカベン』は柔道編から大人気だったんですね。
そう。ずいぶん雑誌の表紙も描いてもらいましたね。

「舐められてたまるか!」
好きなことをやるのが 『週チャン』

『週チャン』の創刊から4年後に現在の社屋が建てられます。これは『週チャン』が売れたからですか?
どうだろう? 新社屋の計画はもっと前からあったと思うが、『チャンピオン』も売れていたからその影響もあったんでしょうね。そういえば、新社屋完成の時に8階の大会議室に社員たちの家族も呼んでパーティーをしたなあ。懐かしい。

会社が移転してから、近所にできたスナック〈紅〉へ足繁く通われるようになったそうですね?
足繁くってもんじゃないよ。毎日だよ。とにかく〈紅〉に行ってから家に帰るって感じだった。

〈紅〉には現在の編集者も通っています。脈々と続いています。
そうか。ママに会いたいな。

なぜ『週チャン』の編集者たちは〈紅〉に行ったんですか?
会社から近かったのと、ご主人とママの人柄だね。マンガ家もよく連れて行ったよ。会社じゃできないマンガの話をいろいろしてね。45年前だから、〈紅〉も新しいお店でね。しかもなにより安かった(笑)。

今も良心的な値段で助かっています。
ハハハ。変わらないな。

最初に常連になったのは成田さんですか?
どうだったかな? 『まんが王』の編集長だった壁ちゃんと通ってたんだよ。彼とは兄弟みたいなものだからね。彼は……もう、死んじゃったんだよな。寂しいな。

編集長をやられていくなかで大切にしていたことは?
雑誌は自分の顔と一緒だと考えていた。自分の身体と本の中身は一緒だと。そういう気持ちで作っていました。

編集者たちに言っていたのは?
うん。自分の身体と本が一緒なんだから、マンガ家と馴れ合ったり、ただの友だちになるのはダメだと。作品を作るんだということを忘れるな! とはよく言っていました。

後輩の編集者たちの証言によるとかなり怖い方だったと聞きました。
そうだったかな(笑)。 忘れました。まあ、梶原一騎先生より怖いと言ってた奴もいたかな(笑)。

「舐められてたまるか!」が口癖だったとか。
チャンピオンをトップにしたいという思いが強かったからね。

チャンピオンへの変わらぬ愛を感じます。現在の『チャンピオン』に望まれることや現役編集者へ伝えたいことは?
私たちは自分の好きなようにやってきたから、自分たちの好きなようにやりなさいってことだね。ただし、『チャンピオン』は昔から編集者中心じゃなくて、マンガ家中心でやっていたからね。作家の描きたいものを描かせてあげるスタンスで好きなようにやればいい。

貴重なお話、ありがとうございました!

成田編集長時代に連載がはじまったおもな作品