2019.10.03

“ゆうひが丘の総理大臣”
望月あきら先生
レジェンドインタビュー

破天荒な教師と、生徒たちのふれあいを描きTVドラマ化もされた傑作「ゆうひが丘の総理大臣」。
その作者・望月あきら先生が、週チャンを手がけた時代のことをふり返る!!

『読み切り連載でやれ』って言われて、
悲鳴あげました

1977年のある日、長期の療養生活を終え、病院から退院したばかりの望月あきら先生のもとに、少年チャンピオンの編集者が訪ねてくる。それが名作『ゆうひが丘の総理大臣』誕生の瞬間だった。
「ぼくが描いてた『サインはV!』というマンガがドラマ化(1969年)して、脚本までやったものですから、寝不足と過労で結核やっちゃったんですね。それで片肺取っちゃって、一年半も入院して、もうマンガ家はダメだろうと思っていたときに声をかけてもらったので、運がいいというかありがたかったですね。
以前、少女誌で描いていた『すきすきビッキ先生』というマンガをチャンピオンの編集者が読んでいてくれて、『その少年マンガ版を描けないか』と言ってきたんです」

『すきすきビッキ先生』は、1964年に『週刊マーガレット』(集英社)で連載されていた作品だ。ガサツでオッチョコチョイな新任教師が学園中で騒動を巻き起こすも、いつしか生徒の心をつかんでいく─という基本ストーリーは、のちの『ゆうひが丘の総理大臣』にも引き継がれている設定である。
資料として持参した『ゆうひが丘の総理大臣』が表紙を飾る77年の少年チャンピオンに顔をほころばせながら、望月先生は当時を振り返る。

「いいマンガが多かったですから、この人たちと競争するのはきびしかったですね。それと壁村耐三さん(週刊少年チャンピオン第二代、第四代編集長)から『読み切り連載でやれ』って言われて、悲鳴あげましたよ(笑)」

読み切り連載とは、一話の中で物語が展開し、完結するシリーズ作品のこと。読者にとっては、それまでのあらすじを知る必要がないため、どの号からでも読みはじめることができるというメリットがあるが、作家にとっては毎週新作を描くようなものであり、その分負担が大きいことは言うまでもない。
「毎号、オチをつけなくてはならないというのが本当につらかったですね。なにかヒントになるものはないかといろんな本を読んだり、枕元にメモ帳置いて寝たりとかね。起きてから読み返してみると、くだらないものが多くて(笑)」

「その一部がここにあるんですけど」と言いながら、望月先生は当時のメモを引っ張り出してきて見せてくれた。どの紙にもびっしりとアイデアが書かれていて驚く。
「連載中は大変なことが多かったですね。まじめな教頭先生が、隠れてストリップ劇場に行く、という話があるんですけど(「先生だって人の子よの巻」単行本3巻に所収)、それを描くときに、ぼくはストリップを観たことがなかったから、『どこかにない?』って担当さんに聞いたら教えてくれて(笑)。マンガの参考にしようと思って劇場の前で写真を撮っていたら、中からコワモテの男の人が5、6人、バーっと飛び出してきて、劇場の中に引きずりこまれちゃったんです。カメラを取り上げられて、フィルムも出そうとされちゃってね。『お前はどこの組のモンだ?』とか言うわけですよ(笑)。いや、組じゃないです、マンガ描いてますなんて話をしてて、なんとかわかってくれたんですけど、どうもストリッパーの引き抜きとカン違いされたみたいで(笑)。あの時はびっくりしました」

望月あきら●もちづき あきら

静岡県出身、1957年に『聡明活殺剣』(日の丸文庫)で貸本漫画家デビュー。
週刊少年チャンピオンでは「ローティンブルース」や「ズーム・アップ」など数々の連載作品を手がけ、1977年から「ゆうひが丘の総理大臣」の連載を始めた。

担当さんのことで苦労したことを
おぼえてます(笑)

熱心な取材のかいあって(?)『ゆうひが丘の総理大臣』は、名作ばかりの当時のチャンピオンの中でも屈指の人気作品となっていく。しかし、人気があればあったで、「別の悩みが出てきまして」と望月あきら先生は苦笑する。
「いちばん困るのは、壁村さんが『招待!』とか言っちゃってね、連れ回すんです。ぼくは一滴も呑めないのに。自分が飲みたいだけなんでしょうけど(笑)。これが一番きつかったです。それだけ時間がとられるわけだし、だからといって連載が休めるわけでもないから、そうすると寝る時間を削るとか、なんかやりくりしないとダメなわけでしょう。あれは大変でした。もうそろそろ……と言っても、『あと一軒! あと一軒だけ!』って。
壁村さん、酔っ払うと必ず、高倉健さんの『唐獅子牡丹』のサビのところだけ、何度も何度も唄うんですよ。あの姿は忘れられないですね……」

さらに、輪をかけて酒好きだったのが、なんと望月あきら先生の担当編集者だったという。
「担当さんも、ものすごく酒好きでね。こういう取材だと『当時の苦労話を』って言われるけど、マンガの苦労話より、担当さんのことで苦労したことをやたらおぼえてます(笑)。さっきも言ったように、ぼくは一滴も呑めないんですよ。彼はガブガブでしてね。だから結局、最後はぼくが彼をタクシーで自宅まで送っていくんですね。普通は担当さんに作家が送ってもらうんでしょうけど(笑)。家についたらついたで、まずは奥さんを起こして、グデングデンな身体を二人がかりで家にあげてね。考えたら、タクシー代もらったことないんじゃないかな(笑)。その人の話ならいっぱいあるんですけどね。とにかくやさしい人でした。若くして亡くなられたのが本当に残念です」

『ゆうひが丘の総理大臣』は連載開始から一年後の1978年には日本テレビ系列でテレビドラマ化されているのだが、大岩雄二郎を演じた俳優の中村雅俊さんとはその後も長くお付き合いされていたという。
「『コンサートに来ませんか』って電話をくれたので、楽屋に行って、おしゃべりしたことがあるんですけどね。彼がなにかの用事で中国に行ったとき、空港にいた若い女の子が彼を見て、『ソーリ、ソーリ』と言うんですって。はじめは自分に向かって言ってるとは思わなかったらしいんですけど、現地の人から、ほら中村さんを“総理”って呼んでるんですよって言われて、『びっくりしちゃったよ。その話をぜひ、望月さんにしたくってね』って」

実に『ゆうひが丘の総理大臣』は、国境を越えて愛された作品だったのだ。
ところで、望月あきら先生に、連載当時、ライバル視していた作品をたずねたところ、先生からはこんな答えが返ってきた。

「ぼくが意識していたのは少年ジャンプの『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。始まったのもだいたい一緒の時期でね、『ゆうひが丘の総理大臣』はチャンピオンの“こち亀”みたいな役目を果たしたいなと思ったんですけど、なかなか難しかったです。やはり秋本治先生はすばらしいマンガ家さんですよ。それは、ぼく個人で考えていたことで、誰にも言ってなかったことですけどね」

自分が手がけた雑誌はいくつになってもかわいい

日本のマンガ史に残るような傑作怪作ぞろいの当時のチャンピオン作品ではなく、“こち亀”の名前をあげた望月あきら先生。一見、意外に思えた回答だったが、言われてみれば確かに「バンカラな主人公」「人情味を感じさせるストーリー」そして「読み切り連載」と共通点は多い。違うのは、主人公が煙草を吸うか吸わないかくらいか─いや、確か両さんは単行本34巻で禁煙したはずだから、『ゆうひが丘の総理大臣』ももう少し長く連載されていたらソーリも煙草やめてたかも!?
最後に、望月あきら先生から週刊少年チャンピオン50周年のメッセージをいただいた。

「自分が手がけた雑誌ですからね、できることならさらに発展していってもらいたいというのは、これはもう当然のことなんですけど。ただこれからはコンピュータの時代ですからね。紙の本だけじゃあとても追いつけないだろうし、そういう点で出版社のほうでも週刊少年チャンピオンを、こうやったらもっとウケるもっと売れるということを考えていただきたいです。
というのも、ぼくらの世代で、これからいい考えがバーっとひらめくっていうことはもうありえないので、これからは若いマンガ家、若い編集の方でさらにチャンピオンを盛り上げていっていただきたいと思います。
チャンピオンにはいつまでもがんばっていてほしい。やっぱり自分が手がけた雑誌はいくつになってもかわいいですからね」