2019.10.10

8代目編集長 樋口茂
(2002年6号-2005年47号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

現秋田書店社長の樋口茂が満を持しての大登場!!壁村氏という巨星のもとで新風を捲き起こさんと大奮闘!!
それはまさにジャイアント馬場、天龍源一郎の関係性に大類似!!浜岡賢次、米原秀幸、古谷野孝雄らを見出だした「樋口革命」を大直撃!!

岡山県の悪ガキが運命に導かれ秋田書店へ!!

学生時代はかなりの不良だったと聞きました。
誰が言ってた? そんなことありませんよ。そりゃあ真面目かと言われれば、不良でしたけど(笑)。かといって『クローズ』に出てくるような不良じゃありません。

不良は不良だったんですね(笑)。
ウチは親父もおじいさんもひいおじいさんも代々、学校の先生なんです。私は長男だったので、親父は私を先生にしたかったらしいけど、毎年、同じことを教えることに耐えられないと思って先生にはならないぞと思っていました。

先入観ですけど、世の中にいる学校の先生のお子さんは頭がいいんだろうなと思っていました。
周囲の目はお前はどうなんだ?って感じだったね。実際は勉強がめちゃくちゃできるわけじゃないし、すごい不良でもない。バレーボール部や柔道部にも所属していたし、いい加減な感じです(笑)。

先生になりたくないのだけは決まってたんですね(笑)。なりたい職業などはあったんですか?
親父が美術の先生をやりながら絵を描いていたので、漠然と絵を描く職業がいいなあと思っていました。それで、高校のときに「美大に行きたい」と言ったら、「ちょっとばかり絵が上手いからって、それでメシを食えると思っているのか?」って言われて美大に行くのはやめました。

絵は好きだったんですね、マンガも?
好きでした。小さい頃は近所のお兄さんが買ってた『冒険王』とか『少年画報』を読ませて貰ったりして、その頃はゼロ戦ものとか読んでいましたよ。

吉田竜夫先生とか辻なおき先生ですね。
ええ。好きでした。いわゆる学生時代はマンガ少年でもありました。大学生のときは『少年マガジン』の『愛と誠』が好きで、ながやす巧先生の絵を真似て、読者ページに投稿したりもしました。載りませんでしたけどね(笑)。あと、大学時代は『週チャン』の勢いが凄くて、『ドカベン』と『がきデカ』を目当てに買っていました。

では、就職もマンガ編集者を目指した?
出版社は受けていましたけど、全滅でした。教職課程を取っていたので教師になるという道もあったのですが、それもやっぱりなあ……なんて思っていながら親戚から損保会社を紹介されてそこに入る感じになっていたんです。すると地元(岡山県)の知り合いから、「出版社、ぜんぶ落ちたの? 秋田書店ってあるんだけどどう?」って連絡をいただいたんです。「え? 秋田書店ってあの『チャンピオン』の!?」ってビックリしました。どうやら秋田書店の創業者の方が岡山県出身で、希望者がいたら面接をしてくれるということだったんです。

当時の秋田書店の試験はどんな感じだったのですか?
採用試験なんて呼べるものじゃなかったよ。当時は『週チャン』がいちばん勢いのある頃で、人手が欲しかったんだろうね。(当時の)会長と社長に会って「やる気ある? 春休みから来られる?」「はい」ってことで決まりました。岡山の知り合いからの連絡が一日でもズレてたら損保会社に入ってましたね(笑)。

「お前ら辞めろ!」入社2日目に響いた怒声

まさに運命ですね。入社してすぐに『週チャン』ですか?
そう。4月1日に編集部に配属されたんですけど、4月2日には酔った壁村編集長から「お前ら辞めろ!」って飲み屋で怒鳴られました。

新入社員にいきなり? 今だったらみんなその場で辞めちゃいますね(笑)。
当時は普通というか、日常でした(笑)。もちろん今は違いますよ(笑)。

1978年の『週チャン』は、部数も日本一になろうかという時期です。かなり忙しかったのでは?
忙しかったですけど、最初は辛くていつ辞めようかと揺れていました。ただ、マンガ家さんと知り合うと、自分が辞めたらこの作家さんはどうなるんだろうと考えて留まったり。2年ほどは怒鳴られながらの日々がずっと続きました。そうこうしているうちに壁村編集長から「『冒険王』で若いやつが必要だから樋口、行ってくれ。だけど、2年経ったら戻ってもらうぞ」と言われて、『冒険王』の編集部に異動になりました。

せっかく『週チャン』に慣れたのに。
でもね、『冒険王』は楽しかったんですよ。『週チャン』は大所帯だし、新人がやれることは限られていたんですけど、『冒険王』の編集部は5~6人で一冊を作らなければいけない。しかも、付録もあるし、口絵もあるし、マンガもあるし、取材もある。新人だろうがなんだろうがなんでもやらなきゃいけなかったんです。

仕事がたくさんあることが嬉しかったということですね。
ロケで九十九里浜に行って、怪獣の着ぐるみのなかに入らされてポーズをとったり。

前回、登場していただいた大塚編集長も着ぐるみの中に入るのが嫌だったって言われていました。
とにかく着ぐるみのなかが暑いんですよ(笑)。で、写真を撮って、上がってきたものを自分で選んで口絵にするんです。

怪獣の中身は樋口さんなんですよね? 自分の写真を自分で選ぶわけですね(笑)
そうそう(笑)。マンガ家さんともたくさん知り合えたし、雑誌作りのいろいろなことをそこでやれましたからね。

結局、『週チャン』に戻ってきたのは?
2~3年は『冒険王』にいて、4代目編集長の神永さんのときに『週チャン』に戻りました。

樋口 茂● ひぐち しげる

1955年岡山県生まれ。専修大学卒業後、1978年に秋田書店に入社。『週刊少年チャンピオン』、『冒険王』、『グランドチャンピオン』を経て、『月刊少年チャンピオン』編集長に。2002年からは『週刊少年チャンピオン』の編集長も兼任。2005年からは『ヤングチャンピオン』編集長。現在は秋田書店社長。

小林よしのり先生との出会い
『いろはにほう作』の誕生

『冒険王』での経験をもとに、『週チャン』でやってみようと思われていたことなどは?
やっぱり自分が好きなマンガ家さんの連載をゼロから起こしたい気持ちはありました。その頃の私は『ジャンプ』でやっていた小林よしのり先生の『東大一直線』が好きだったので、小林先生のところに通い続けました。

他社からの引き抜きですか?
その頃の小林先生はいろいろな雑誌で描かれていたので、正式に依頼をして『いろはにほう作』を連載してもらいました。先生はマンガに厳しい人で、でき上がった雑誌を持っていくと、それを読みながら、「樋口君、今週の『マガジン』はどう思う? 『サンデー』は?」って聞かれるんです。先生はすでに全誌読んでいるんですね。ギャグなので、内容に関する打ち合わせはそんなにしないんですけど、マンガの話はよくしました。

樋口さんは新人作家を多く発掘したと聞きました。
若手は自分で企画を通さなければ担当を持てませんからね。小林よしのり先生と知り合った頃に、のちに『激闘‼荒鷲高校ゴルフ部』を描いてもらう沼よしのぶ先生や、『女郎』の笠原倫先生と出会ったり、新人賞に応募してきた『浦安鉄筋家族』の浜岡賢次先生の担当になったりしました。

高校生の浜岡先生が樋口さんの元へ通ってきていたエピソードは浜岡先生からも聞きました。
浜岡先生が水球部を終えて打ち合わせに来てましたよ。坊主頭が濡れててね(笑)。

やっぱり頭は濡れてたんですね(笑)。
当時の『週チャン』はラインアップが凄くて、野球で例えると3割打者ばかり。なので、そのなかに新人を入れるのは難しかったんです。

確かに連載陣が結果を残しているわけですから変える必要はないですよね。
でも、『ジャンプ』は新人で結果を出しているわけですから、若手の私としてはなんとかしたいわけです。当時、浜岡先生には『月チャン』で『のりおダちょ〜ん』を連載してもらっていたのですが、壁村編集長がなかなか単行本を出してくれない。人気はあったんですけど、売れないと言われて。こっちも若いから喧嘩腰で「出してくださいよ!」と直談判したりもしたんですけどなかなかOKしてもらえなくて。結局、「じゃあアンケートで1位を取ったら出してやるよ」という約束を取り付けて、浜岡先生と頑張ってようやく1位を取って単行本を出したんです。でも、結局、売れなくて……あの頃はそういうことがけっこうあって、新人マンガ家さんたちとよく飲みに行ってました。

『週チャン』の歴史のなかでも、80年代は大きな変革の時期ですよね。
当時の若手、浜岡先生や米原秀幸先生、古谷野孝雄先生らと苦闘していました。当時、売れるのは絵のクオリティが高い作家さんという認識が世の中にあったと思いますが、私はそうは思っていなくて、絵のクオリティは高くなくても、「これは面白い」と思った作品が『ジャンプ』や『ヤンマガ』で人気になったりして勢いを感じていたので、面白ければ人気は出るだろう、絵はあとから上手くなるだろうと考えていました。

『月チャン』&『週チャン』編集長に⁉
ダブル編集長で快進撃!

樋口さんは、『週チャン』、『月チャン』、『ヤンチャン』3誌の編集長を歴任されたわけですが、順番的にはどの雑誌がいちばん早かったんでしょうか?
『週チャン』が6代目編集長・岡本さんの時代に、社長から新雑誌を創刊するからと言われ、『グランドチャンピオン』の編集部へ異動しました。ですが、その雑誌が2~3年で休刊になり、私は『月チャン』に異動になるんです。そのときに高橋ヒロシ先生の『クローズ』を6巻くらいから受け継ぎ、2~3年後に『月チャン』の編集長になりました。

最初は『月チャン』の編集長になられたのですね。次が『週チャン』ですか?
『月チャン』と『週チャン』、両方の編集長をやれと言われたんです。

ええっ!? 両方ですか?
当時の『月チャン』って、高橋ヒロシ先生が『WORST』(2001年~)を始められたばかりでちょうど1巻が出るくらい。実は『クローズ』の連載が終了してから『月チャン』はかなり苦戦してて、やっと調子が上向いてきたところだったんです。こちらとしてはようやく『月チャン』らしくなって攻めるぞ! と意気込んでいたところだったから、正直、ええっ?と……。

ここからなのに?となったんですね。
その気持ちを知ってか、当時の社長が「お前も今、『月チャン』を離れるのは悔しいだろうから、両方の編集長をやれ」ということになったんです。

それでまさかの2誌同時の編集長をやられたわけですね。
とはいえ、週刊誌と月刊誌を同時に見るのは大変でした。毎日、膨大な量の校了をして、台割を作るだけ。さすがに数か月でこれは無理だということになって、『月チャン』を手放して、『週チャン』一本にしました。

樋口さんが編集長になられたのは2002年です。編集長として掲げていたテーマは?
一貫して若い作家さんを出していきたいというのは、編集者時代と変わっていません。時代的にも携帯電話が出てきて、マンガ離れの読者とどう向き合うかということを常に考えていました。覚えているのはグラビアをどうするか?や、どんな変わった付録をつけて読者に楽しんでもらうかで頭を悩ませていました。

当時の表紙を見ると小倉優子、熊田曜子、MEGUMI、安田美沙子といったグラビアアイドルが多いですね。
MEGUMIの表紙は売れたんですよ。電車の網棚に読み終わった『週チャン』が置かれてると、「お、今週号は売れたな」と思ったものです。

読者アンケートの結果だけでなく、ハガキも1枚1枚読まれていたとか?
そうですね。集計だけだとわからないことがハガキの欄外に書かれていたりしますからね。壁村さんも編集長のときにはずっと見てらっしゃいましたしね。

漫画界が揺れた‼『バキSAGA』の真実

樋口編集長時代に起きた事件で真相を聞きたいことがあります。
事件なんてないでしょう(笑)? バーコードを間違ったやつかな?

そ、そんなこともあったんですか?
刷り上がった雑誌のバーコードが間違っていて、社員総出で正しいバーコードのシールを貼り直したことがあります。何十万冊もあって、あれは事件だったなあ(笑)。もちろん、その後にはみんなで飲みに行きましたよ。

それは知りませんでした(笑)。聞きたかったのは、板垣恵介先生の『バキ特別編 SAGA[性]』の話です。
それは事件でもなんでもないよ。板垣先生から『週チャン』でやりたいという相談をされたんだけど、少年誌として内容的に厳しいのははっきりしていたので、『週チャン』ではできませんという話をしたんです。

『バキ特別編 SAGA[性]』は、『ヤングチャンピオン』で連載されました。やはり少年誌では難しい内容でしたか?
板垣先生は誰もやったことがない面白いことをやられる方だから、こちらも実現したいんですよ、実際に素晴らしいアイディアだしね。でも、さすがにセックスをそのまま描くのは少年誌じゃ無理ですと。何をしてもいいんだけど、セックスは範疇を超えてしまう。ただ、面白いのは間違いないから『ヤンチャン』の編集長に相談してそちらで連載してもらうことになったんです。

そういう経緯があったんですね。樋口編集長時代には『ドカベン』のスーパースターズ編が始まったり、『キャプテン翼』の高橋陽一先生が『ハングリーハート』をシリーズ連載されたり、『浦安鉄筋家族』が終わって、『元祖!浦安鉄筋家族』にリニューアルしたりもしました。
浜岡先生は嫌がってたけどね(笑)。まあ、商売的な理由もありまして、リニューアルさせてくださいとお願いしました。長い巻数になっちゃうと書店さんの棚に置けなくなっちゃうんだよね。

2002年にスタートした『アクメツ』(作画:余湖裕輝/脚本:田畑由秋)は、悪徳政治家を成敗していく過激な内容で話題になりました。
『アクメツ』はいろいろな意見があるかと思いますが、『週チャン』であれをやれたというのは嬉しいと言うか、心に残っている作品のひとつです。実際、社内から批判も浴びたりしましたしね。とはいえ、読者からのクレームは一切なかったですよ。むしろ、「このままガンガンやってくれ」というお電話をいただきました。

多少の批判は浴びても構わないというスタンスだったんですか?
壁村編集長は『がきデカ』で常識人や文化人から「過激すぎる」とクレームが来ても、いっさい動じない人でした。むしろ、文句を言われるような作品を『チャンピオン』でやってることが嬉しいみたいな感じでした。オレたちは他の表現ではできないものをマンガでやっているんだと矜持があったからだと思うんです。

問題作も受け入れるというのは樋口さんにも受け継がれていたわけですね。
いちばん元気だった頃の『ヤングマガジン』って下手な絵もあったけど、雑誌から言葉じゃ説明できないパワーを感じたんです。『柔道部物語』のような作品から、ど新人の作品まで元気な作品が次々と出てきていた。そういう雑誌になるといいなと思っていました。

樋口編集長時代に登場してきた作家は確かに“元気”ですね。『アクメツ』もそうですし、佐渡川準先生の『無敵看板娘』、阿部秀司先生の『番長連合』、藤井良樹・旭凛太郎先生の『ガキ警察』、佐藤タカヒロ先生の『いっぽん!』、桜井のりお先生の『子供学級』とか。
阿部秀司先生は『ヤングマガジン』で『エリートヤンキー三郎』を連載されてて、その頃に何回か会いに行っていたのですが、あるとき阿部さんが「『週チャン』で描きますよ」と言ってくださって。「じゃあ、打ち合わせしましょう」って言ったら、「内容は決まってないけど、タイトルは『番長連合』です」と。タイトルを聞いて即決しましたね~(笑)。

チャンピオンらしいですね(笑)。中身はまだなのにタイトルで決めちゃうっていうのが(笑)。
だって『番長連合』だよ? 絶対に面白いでしょう、それは(笑)。

確かに。雑誌の悪ノリというか、勢いにつながる気がします。
今は電子書籍でもたくさんの人に読んでもらっていますが、まずは紙の雑誌で面白いことをやって、紙で買いたいと思ってもらうようにしたいですね。昔、大友克洋先生が『AKIRA』を始めたときに、この本は一生手元に残しておかなきゃいけないと思ったように、電子も買うけど、紙でも持っていたいと思っていただけるようなマンガ作りをやっていきたいなと思います。

表紙がカッコいいとか、企画の内容が凄いとか、残しておきたい号ってあります。
ちょっと高いけど、こっちのほうが欲しいと思ってもらうようなね。私もこの前、安い爪切りと、こだわりの作りの爪切りを迷ったすえに、こだわりの方を買いましたから(笑)。

これまで多くの作品を作られてきて、樋口さんがマンガ作りにおいて大切にしていることは?
基本的に弱い立場に立った視点で物語を作っていくのは重要だと思っています。エリートの視点で作られたマンガはどうも違う気がします。やはり、『クローズ』の高橋ヒロシ先生が描かれるエリートじゃない者たちの目線がマンガ読者にとっても共感できるところだと思うんです。弱者の立ち位置を変えないようにすることですかね。

『週チャン』は今年で50年を迎えました。今後に対する思いを聞かせてください。
自分の夢でもあるけど、若い作家さんがドンドン出てきて『週チャン』を引っ張っていってほしいですね。私が編集長時代に沢(9代目編集長)が『グラップラー刃牙』をヒットさせ、いつの間にか浜岡賢次先生が『浦安鉄筋家族』で『週チャン』の看板になってくれている。そして今は『弱虫ペダル』、『BEASTARS』がそれに続いている。状況が常に変わって、新しい作家さんが次々チャンピオンの看板になってくれるのが理想ですよね。

樋口編集長時代に連載がはじまったおもな作品